この世の問題集は必ず解けるようになっている!!
◎ ムジナモを見た田辺教授(要潤)は、珍しい食中植物であるのを言い当て、この植物が日本にあり、その生態を論文として書くように勧めた。その後、このムジナモがめったに咲かないが開花することも分かった。このムジナモの研究に没頭した万太郎が、取り急ぎ植物画と論文を完成させたのは、ムジナモ開花後4か月後であった。
◎ その論文を見た田辺は「君は、自分の手柄だけを誇っているんだな」とおだやかだが何か言いたげ。論文を再確認した大窪助教授(今野浩喜)は、教授の田辺が著者として記載されていないことを指摘し、「お前が見つけたムジナモがアルドロヴァンダ・ヴェシクローサであると突き止めたのは教授だ! だがお前は、自分が見つけたという報告しか書いていない! いかに貴重なものを見つけても何であるか分からなければ、論文は書けなかったはずだ。当然、教授と共著の形にしなければならなかった。」と叱った。大窪助教授は、続けて「教授。申し訳ありません。事務局長としての私の落ち度です。全て破棄し、新たに刷り直します」と伝える。
◎ しかし、田辺教授は「何を期待していたんだか……。もういい! ミスターマキノ。今後、我が東京大学植物学教室への出入りを禁ずる」と万太郎に告げた。
有名なムジナモ事件=植物学教室への出入り禁止事件である。田辺教授は、万太郎の植物学教室への出入りを認めたののであるが、この事件をきっかけとして、彼によって、万太郎の植物学教室への出入りが禁止されたのである。田辺教授は、万太郎の出入りにより植物学教室への活性化が認められると感じてはいたが、よくいわれる万太郎の才能に対して嫉妬したのも事実であろうし、物語にあるように、帝国大学という国立大学になった点などから、大学の出身者でない彼を排除しようとしたのもあろうと思う。
あの世でこの世での課題を集めた問題集を自ら作成し、この世に生まれる際にそのこと自体を全く忘れるようになっており、その上で、この世でその問題集を解いていく仕組みになっているといわれます。学問を追及する植物学教室においては、一般的には東京大学の学生から植物学教室に専任し、・・・助手、講師、助教授、教授になっていくというシステムがあり、そこに勤務する人々も、その中でのルールに基づき、頑張っていくことになる。その人たちは、先ほどのこの世での問題集を解きながら、この植物学教室で生きていたのであろう。田辺教授も、留学した上で、このルールに基づき、この教室で生きてきた人物である。
ところが、世の中には、この問題集を携えてくるのに加え、アインシュタインやモーツアルトのように、この世の文化・芸術・技術等の振興のため、天才的な才能を持って生まれてくる者もいる。遅れていた日本の植物学の振興のために、万太郎もこういった神からの使命をもって生まれてきた人であろう。こういった人々は、よく世間の常識からいって違った行動を取りやすい。というよりも、論文の共著で書くという植物学教室の教えは、学生から入って来た者ではない万太郎にとって、知らなかったのも無理はないのであるが・・・。いずれにしても、万太郎は、この植物学教室のルールを無視した行動(論文の共著)を取ってしまったのである。田辺教授が怒るのも無理はない。
いうならば、植物学教室の中で問題集を解いていく者たちと神からの使命を持って天才的な才能を持って生まれた万太郎との「生き方のギャップ」によるトラブルであろう。
さて、こういった人々に比べ、日々の生活を送ることだけに一生懸命の者もいる。生きていくだけでも精いっぱいの者もいる。その中には、生きるのに疲れてしまう人もいるのも事実。この世の問題集を解いていく過程で、その切り開いていく気力をなくしてしまう者もいるのだ。しかし、この世のその問題集は、その人に応じた問題集であるのであり、必ず乗り切れるものであるというのだ。今では、相談窓口がいろいろ設けられているし、隣の誰かに相談して乗り切るのもいい。※補足論点1・2
途中で問題集を投げ出しても、あの世に行ったら、この世の途中で問題を投げ出したことを大いに反省し、同じような課題の問題集を行うことを、自ら進んで再度行うことになるというのだ。
※補足論点1 まず、生きていることが理屈抜きに大事。いかに生きるか、どう生きるかも、もちろん重要だと思います。・・(しかし)・・・残りの9割ぐらいは生きることそのものだと言ってもいいのではないでしょうか。何があっても生きていれば、人生というテストに80点から90点は取れたようなものじゃないかと思います。(東大教授バリアーフリー研究者福島智=本人は3歳で右目失明・9歳で左目失明・18歳で失聴)<ことば巡礼 23年7月28日宮崎日日新聞 矢口誠著による>
補足論点2 神は自ら「体」を持たないから、この世の体をもつヒトに対して「体験」させることにより、神も同時に「体験」したことになるという。生きることそのものがいかにつらいものであろうとも、神との一体化した体験であるということを考えれば、そのつらさが「やわらぐ」ことにはならないだろうか。
参考:完全版生きがいの創造 飯田史彦著 PHP文庫
神との対話
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