正月番組でNHKが「若者たちのジレンマ」というテーマで10人ほどの発言者で円陣のテーブルを作り、それをまた若者たちが聴くというスタイルでおこなっていた。当然、NHKのディレクターやらの方針でやっているわけで、論客たちがそのレールに乗っている制約があるのは言うまでもない。人が発言しているときには横槍を入れないとか、否定的なヤジは飛ばさないとか、いろいろあるのだろう。
それに「政治的発言」も抑制されているようであった。
僕は、若者(ここではバブル期を知らない30代)に自分なりにこんなことを尋ねたいと思って、見ていたのだった。
こんなこととは、
1)国家とはどんなものであると考えているか
2)国家と政府はどのように違うと考えているか
3)憲法をどう思っているか
4)国家と絡んで、尖閣列島をどう考えているか
5)中国・韓国をどう考えているか
6)日米同盟、集団的自衛権をどう考えるか
7)家族とは何か
8)教育制度
これらのことについては、「朝まで生テレビ」などで扱われるのだが、喋るのは政治家や老年の学者とかで、若い論客の意見がない。
それを判断するデータなどなくてもよいので、率直に今自分が考えていることを知りたかった。
避けて通れない問題であるが、この企画ではNHK側は避けて通りたかったのかもしれない。結局、仙崎某という40歳の思想史学者が一番年上で、「勇気とは普通であることを続けること、喧嘩せず、ちょっとづつでも話をし、根気よく問題を解決してくこと」のような主旨の発言で締めくくられた。
デジタルクリエーターという肩書きをつけていた猪子某は「若い人は全般的に生命力が少ないんじゃないかと思う」という主旨のことを言ったのは印象的であった。
この生命力が少ないというのは、別に今の若者だけに限ったことではないが、その割合が多くなったという印象を持っているのだろう。現代の病理の最も象徴的であるのは、「うつ病」である。ペニシリンができるまでは結核であった。
特に。「「おお、こんな意見もあるのか、というものもなく、こういうところにでる人というのは一応の成功者であり、考える立場を与えられた人たちである。」しかし、大衆というのはそんなひ弱な言葉を発しているものも含めて、大きな波となって押し寄せ、解体し、解体されることも望み、それでもひとりひとりたくましく、生き抜いていくものでもある。僕はそう思っている。
もっと過激に言ってもいいのではないか、これでは高校生のほうが率直に言うのではないか、と思うこともしばしばであった。
オレなんかも30の頃は何も言えなかったかもしれないなあ、と思うこともあったのは確かなことだが、カタカナ用語が多いのには違和感をもった。インテリの傾向ではある。
それに「政治的発言」も抑制されているようであった。
僕は、若者(ここではバブル期を知らない30代)に自分なりにこんなことを尋ねたいと思って、見ていたのだった。
こんなこととは、
1)国家とはどんなものであると考えているか
2)国家と政府はどのように違うと考えているか
3)憲法をどう思っているか
4)国家と絡んで、尖閣列島をどう考えているか
5)中国・韓国をどう考えているか
6)日米同盟、集団的自衛権をどう考えるか
7)家族とは何か
8)教育制度
これらのことについては、「朝まで生テレビ」などで扱われるのだが、喋るのは政治家や老年の学者とかで、若い論客の意見がない。
それを判断するデータなどなくてもよいので、率直に今自分が考えていることを知りたかった。
避けて通れない問題であるが、この企画ではNHK側は避けて通りたかったのかもしれない。結局、仙崎某という40歳の思想史学者が一番年上で、「勇気とは普通であることを続けること、喧嘩せず、ちょっとづつでも話をし、根気よく問題を解決してくこと」のような主旨の発言で締めくくられた。
デジタルクリエーターという肩書きをつけていた猪子某は「若い人は全般的に生命力が少ないんじゃないかと思う」という主旨のことを言ったのは印象的であった。
この生命力が少ないというのは、別に今の若者だけに限ったことではないが、その割合が多くなったという印象を持っているのだろう。現代の病理の最も象徴的であるのは、「うつ病」である。ペニシリンができるまでは結核であった。
特に。「「おお、こんな意見もあるのか、というものもなく、こういうところにでる人というのは一応の成功者であり、考える立場を与えられた人たちである。」しかし、大衆というのはそんなひ弱な言葉を発しているものも含めて、大きな波となって押し寄せ、解体し、解体されることも望み、それでもひとりひとりたくましく、生き抜いていくものでもある。僕はそう思っている。
もっと過激に言ってもいいのではないか、これでは高校生のほうが率直に言うのではないか、と思うこともしばしばであった。
オレなんかも30の頃は何も言えなかったかもしれないなあ、と思うこともあったのは確かなことだが、カタカナ用語が多いのには違和感をもった。インテリの傾向ではある。