25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

西洋化とイスラム国

2015年01月07日 | 音楽
 モーツアルトは6歳で作曲を始め、ベートーベンは音の振動で作曲をした。貧乏な家に育ったシューベルトは奨学金で神学校に入った。しかし彼にはピアノを買うお金がなかった。頭の中だけで楽譜を作った。31歳の生涯は窮乏の生涯でもあった。彼の作品は売れなかった。ショパンは37歳で肺結核で死んだ。ブラームスは恩師であるシューマンの奥さんを愛したが、シューマン死後も一緒になることはなく、生涯独身を通した。ワグナーは革命に参加したり、借金で逃亡したり、皇帝に召し抱えられたり、波乱万丈の生涯だった。

 19世紀のこれらの天才たちは短命であったが、後世になっても作品は演奏され続けている。ひとつの作品がいろいろな指揮者や演奏家によって受け継がれていくのを「クラシック音楽」という名誉ある称号だろう。ビートルズの作品がもしも100年後、200年後にも受け継がれていくならば、それはやがてクラシックとなるはずだ。

 モーツアルトが現代に生きていたら何をしていただろうと時々思うことがある。やはり管弦楽団用の作曲をしていたのか、ピアニストとなっていたのか、ジャンルはなにか。ジャズをやっていたのか、ロックなのか、ミュジージカルや映画音楽を作っていたのか。音楽などをせずにスポーツでもやっていたのか。

 20世紀の後半以降、カルチャーの裾野が大きく拡散して人の才能をいかす場面が多くなった。映画をつくる人、演技をする人、漫才、イラストレーター、漫画家、小説家、劇作家、脚本、絵画、CG、ロック、フォーク、流行歌、ジャズ、民族音楽、世界のダンス舞踊、サブカルチャアと言われているものはすべて表現活動であり、そんな中で天才たちは何を選んだことだろう。

 この頃、短編小説を読みながら音楽を聴き、次に音楽だけに耳をすまして聴く。クラシックは素人で、作品を聴いて、その中でなにかをつかみとろうとする。詩や小説を読むのと同じように、音楽を読み解くことをしようとしている。

 僕らの時代の人間は18世紀から19世紀の音楽感覚、しかもドイツやオーストリアを中心とした周辺の音楽感覚に馴染んでいる。マルチンルターなどのおかげである。イギリスで天才作曲家がでなかったのは、当時の宗教支配者や貴族が音楽を奨励しなかったからだという話を聴いた。フランスのクラシック音楽は新しさを感じるが異質さも感じる。

 ヨーロッパでは、あれほどの楽器を発明し、オーケストラとして発達させてきたというのは、すごいことだ。日本には三味線、琴、、尺八、横笛、和太鼓ぐらいがあるぐらいであり、バリ島では竹や金属の木琴のようなもの、口琴、鼓があるくらいだ。インドでも弦楽器はあるが、やはり種類が少ない。アジアは独特な音楽の発展のしかたをしたが、それは民族内にとどまっている。

 この点ではピアノを作りバイオリンやヴィオラ、チェロ、コントラバス、トランペットやトロンボーン、チューバ、サキソフォーン、、クラリネット、フルート、ピッコロ、オーボエ、ファゴット、テインパニーからドラム、木琴や鉄琴などなど、よく開発したものだ。
 そのヨーロッパでビートルズが登場し、アメリカではジャズやロックが隆盛し、世界を席巻している。
 僕は昭和の戦後生まれだから、すでにヨーロッパの音楽を学校の授業を通じて感化され、ラジオやテレビにおいてもオーケストラが基本となっていた。
 若者が手軽にバンドを作り、曲をつくるというのも、ヨーロッパ音楽が基本としてある。
 僕らの中の西洋化は止まることはない。

 西洋が過去に植民地化して、定規で線をひくように国境をつくり、それぞれの国家を作らせたのが今崩壊しかかかっている。イスラム国だ。彼らはまずキリスト教者たちが線を引いた国境を取り払おうとしている。徹底して西洋化を拒否しているが、武器だけは西洋化しない。根の深い問題で、やがて同じようなグループがでてきて、連合化していくのだろうか。そしてスンニ派はスンニ派の国家を作り、シーア派はシーア派の国家を統合するのだろうか。日本は関わらないほうがよいと思う。音楽のことを書いていて、こんなところまで流れてしまった。