25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ヤンキー文化

2015年04月03日 | 社会・経済・政治
 ヤンキー文化という言葉を初めて知った。著者である斎藤環によると、ヤンキーとは、「気合いとアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」という人らしい。ヤンキーは絆が好きで、小難しい理屈は嫌いで、目立つことは好きで‥仲間付き合いがよく、車やバイクはかざりたて、キラキラネームが好きで、言葉の通じない白人から遠ざかるらしい。斎藤環はヤンキー文化ヲヒハンぢているわけではなく、この時代の日本人論を試みているのである。
 さて、今度は自分のことになるが、ぼくはヤンキー的なものは嫌いである。路上でソーランを見ていても、なじめない。僕の中には個人主義というものがある。これは利己主義ということではない。個人の自由が共同の社会の中で優先的に自由とともに尊重されるべきものだと考えているし、すでに強固な思想となっている。
 精神力だけでものごとがなせるわけではない。「頑張ろうぜ」といわれても、それは何を意味するのかもわからない。

 ヤンキー的なるものはどこにだってある。それは趣味の問題かと思ったが、どうやらおおきな範囲での精神文化の問題なのだ。 ヤンキーは反知性である。

 インパール作戦を強攻した司令官、牟田口廉也は、「皇軍は食うものがなくても戦わなければならない。兵器がない、やれ弾丸がない、食うものがないなどは戦いを放棄する理由にはならぬ。
 弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか、銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男児には大和魂があるということをわづれてはいかん。-----」 (斎藤環 ヤンキー化する日本)
この補給を無視した強行で、7万人が飢えや病気で死んだ。
 ヤンキー精神はこんな愚かな精神論と結びついてほしくない。