25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

親の七光り

2015年04月12日 | 社会・経済・政治
 親の七光りで有名になり、選挙の地盤、看板を継ぐ。そういうものにすべてが寄せられるかのようになる。小泉進一郎もそうだ。阿部晋三もそうだ。多くの政治家は世襲制のようになっていて、それで、民主主義だ。公平な選挙だという。
 選挙といえば、「地縁」「血縁」や「義理」を言い出し、裁判となれば「個人」を主張する。
 例えば学校の先生が何かの罪を犯したとする。しかし出てくるのは校長だの教育委員会だのである。
 おかしかあないか、この日本の社会。民主主義といいながらそれはちっとも根幹ではそうでなくて、自由と個人主義だと言えば、責任を転嫁させる。
 今日も統一地方選挙があった。結果はまだ知らないが、相変わらずなのだろう。真摯な選挙と言えば前回の沖縄県知事選挙であった。沖縄は争点がはっきりしているからだ。

 アメリカとキューバが国交回復に向かって前進している。イランとも前進している。アメリカには中国とロシアとも仲良くやってほしいものだ。オバマ大統領は宥和路線である。
 話し合えば、辺野古基地移転の問題での沖縄県民の気持ちはわかるはずである。とことん話し合ってわかってもらえなかったら日米同盟などやめればよいと思う。日本は中国や韓国、ロシアとも仲良くすればよいと思う。両者が主張する尖閣や竹島、北方領土は共同の統治でいいのだと思う。
 国の領土を争うなどという考えは古い国民国家の考えだと思う。人は行き交い、交わり、やがて純血種なおというものは(今でもないと思うが)なくなっていく。それが大衆というものの力である。

 教育の貧困さだけは作ってはならない。教育の格差や機会の不平等だけはあってはならない。
 土地などというのは本当は個人のものではない。自然のものである。それはみんなのものである。司馬遼太郎を出すまでもないが、僕はそう思っている。

 ちょうどテレビでは黛敏郎の「G線上のアリア」に振り付けをした現代舞踊をやっている。若い人たちは素晴らしい。彼らの演技に国境もくそもない。おそらく別の国に行っても絶賛を浴びると思う。日本人のダンサーのスタイルも断然よくなっている。そんな芸術は自ら這い上がってくるものだ。しかしながら、「習える」という機会は平等であってほしい。

 するとそれが終わり、画面は「関口宏」と「梶芽衣子」の対談に変わっていた。思い出すのはキル・ビルででてきた「修羅雪姫」の歌を思い出す。梶芽衣子は「鬼平犯科帳」では「おまさ」をずっと演じていた。神田の生まれだそうな。「さそり」ではほとんどセリフがなかったような気がするが、今日の対談ではよく喋っていた。彼女とて、時代劇はやるものの国という強い意識があってやっているわけではないだろう。芝居も国境を超えるものである。

 とりとめもなくなったが、どんなに制度が変わろうと70年やそこらで「変わらない意識の底のほう」と大いに変わった「目に見える外見上の装飾的なもの」があって、実は、責任とか反省とかは国をあげてやっていないのが奇妙なことである。
 天皇陛下がパラオにいくのはいいが、中国にも韓国にもこの際、行ってほしいと思う。行かすわけにはいかないのが政治家なのだろう。