25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ルーティーン

2017年03月01日 | 日記

 相撲やラグビーなどでルーティーンという言葉が登場してきた。琴奨菊のルーティーンはよく知られている。

 一週間や一ヶ月が過ぎるのが速い。すぐに土曜日がくる。そんな話をしていたら、ある人が、毎日が同じことの繰り返し、ルーティーン化していると月日が過ぎるのが速いという。

 小学生の頃は時間や月日はとても長く思われた。それは遊ぶことが多く、いろいろなことが無限のようにあったからなのだろうか。

 そう言えばバリ島に通っている時やバリ島に滞在しているときはやや時が過ぎるのは遅かったようなきがする。

 この頃の日常生活はまったくルーティーン化している、もっと活動を増やせばやや時の過ぎるのが遅くなるのだろうか。

 人生を円のようだと考えれば、歳をとっていくことは、だんだんと中学生、小学生、幼児の頃と戻っていくのだろう。すると、老年のある時期から時間がとても長く思えるようになるのかもしれない。

 脳の働きが活発ならばたとえルーティーン化していても、時間の速度は遅くなるのか。いやいや、これには身体の能力も関係してくるのか、興味深い問題であるように思う。

 好きなことをやっていれば時間の速度が速いということもありえる。

 先の毎日が同じルーティーンだと言った人の言うこともわかるような気がするので、考えてみたが、どうにも考えがまとまらない。

 人間は複雑にできているが、規則的であるというより実は不規則性の方が多い。でなければ、夜働く人も、毎日のハプニングも、言葉の息継ぎにしても、脈拍にしても説明ができない。不規則であることを当然だと思っている自分は規則的に生きることに執着しない。そんなところにルーティーンの問題は落ち着いてしまう。

 おそらく琴奨菊のような取り組み前の決まった所作は精神の乱れを防ぐためにするのだろう。人間の生活にルーティーンはどうやら持ち込めないような気がする。