25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

折々の花

2017年03月04日 | 日記

   有吉佐和子の「芝桜」と「木瓜の花」を読んでからすっかり木瓜の花にはまってしまった。木瓜にも実に多くの種類がある。実をつけないといわれる「淀の木瓜」

をこの目で見てみたいものだが、コメリでは残念ながら

見当たらない。家の名も知らぬ木瓜の花は蕾がで始めた頃なのに、北浦の実家の前の木瓜は今が満開である。やはり日当たりの関係なのだろうか。目に染みるように花をしげしげと見る。あの生きるに凄腕の蔦代はこまめに木瓜を育て、丹念に手入れをしていた。それだけでこの女は悪人などではないとわかる。ちょっと人を利用するのがうまいだけだ。主人公の女性はなんども蔦代と縁切りをしようとするが、結局腐れ縁は解消しない。戦前、戦中、戦後をみごとにおもしろおかしく、しかも有吉佐和子の着物の知識も満載で良い小説だった。

  現代の人が読めば、昭和という時代がどんなものだったか、驚くに違いない。人間はいろいろあるものの、今ほど神経質ではなかった。近代社会はまだ未成熟で、逆におうようでもあった。

  よく日本人は家の内側を飾り、西洋では外側に出窓などで、外の人に見えるように飾るとか、西洋人は風呂にあまり入らず、日本人は清潔好きだともいわれた。

 日本人論も流行した。戦後70年もすれば日本人も様変わりするのかと思ったら、風俗が変わり、歌が変わり、ダンスなども変わるくらいで、責任という概念は虚無のままで、東京のど真ん中に、空虚が存在するかのように、責任は空虚化している。

 こころのありかたの部分で日本人はさほど変わっていないように思える。ウヤムヤな結末を了とする国民性があるのだろう。

 木蓮が明日頃満開となり、青空に白い花を咲かせる。それが終わったらいよいよ満作、木瓜、牡丹、桃と咲く。熱帯の花は毎日咲くが、四季のある日本では季節に一度に咲いて、また一年待つことになる。これも儚い。 日本人に無常ということがなんとなくわかるような気がするのは、そんな折々の花も影響しているのかもしれない。


人間の強さ、弱さ

2017年03月04日 | 日記

   東日本大震災で妻の両親がなくなってから6年になろうとしている。合同七回忌をするということで妻はいわき市の故郷へ出かけた。3月11日。地震速報がありすぐに電話をしたが電話に誰もでなかった。

 家にいた両親を助け出そうと、息子は車で向かったが、ちょうど家の前で待つ両親を見たところで津波が来た。息子の車も津波に呑み込まれた。だが水圧がかかり、後部のガラスが運良く割れた。彼はそこから脱出した。両親はそのまま呑み込まれ流された。2日ほどで遺体が発見された。

 千年に一度という大地震であった。いまなお余震が続いている。あまり目立つこともなかった福島県はフクシマとカタカナになって原発事故で有名になった。

 フクシマ原発の事故の後始末は今なおできていない。

 ドイツが脱原発を決め、台湾も決めた。東芝も、この大地震で傾きかかっている。東電は政府に庇護されてやっている。

 あらたな電力装置の開発が進んでいる。まだ道半ばなのだろうが、水素発電、マグネシウム発電、バイオマスカ発電。簡単な自家発電装置。人間は癌を克服していくように、このような科学的問題は克服していくのだろう。

 強面、弁達、執着、コネ利用、権威主義、幼稚園の理事長が愛国心だの家族の絆(家族主義)とは笑わせる。

 また権威をそんたくしているように見える官僚のひ弱さにも呆れもする。これほどストーリーが丸見えのような事件なのに、謎のままで、違法性が今のところない、というのは詐欺がより巧妙化でぃているのと同じだ。

 科学は進歩しても、人間の関係から生じる事柄はキリストや仏陀が生まれたころから変わらないと思わせる。