有吉佐和子の「芝桜」と「木瓜の花」を読んでからすっかり木瓜の花にはまってしまった。木瓜にも実に多くの種類がある。実をつけないといわれる「淀の木瓜」
をこの目で見てみたいものだが、コメリでは残念ながら
見当たらない。家の名も知らぬ木瓜の花は蕾がで始めた頃なのに、北浦の実家の前の木瓜は今が満開である。やはり日当たりの関係なのだろうか。目に染みるように花をしげしげと見る。あの生きるに凄腕の蔦代はこまめに木瓜を育て、丹念に手入れをしていた。それだけでこの女は悪人などではないとわかる。ちょっと人を利用するのがうまいだけだ。主人公の女性はなんども蔦代と縁切りをしようとするが、結局腐れ縁は解消しない。戦前、戦中、戦後をみごとにおもしろおかしく、しかも有吉佐和子の着物の知識も満載で良い小説だった。
現代の人が読めば、昭和という時代がどんなものだったか、驚くに違いない。人間はいろいろあるものの、今ほど神経質ではなかった。近代社会はまだ未成熟で、逆におうようでもあった。
よく日本人は家の内側を飾り、西洋では外側に出窓などで、外の人に見えるように飾るとか、西洋人は風呂にあまり入らず、日本人は清潔好きだともいわれた。
日本人論も流行した。戦後70年もすれば日本人も様変わりするのかと思ったら、風俗が変わり、歌が変わり、ダンスなども変わるくらいで、責任という概念は虚無のままで、東京のど真ん中に、空虚が存在するかのように、責任は空虚化している。
こころのありかたの部分で日本人はさほど変わっていないように思える。ウヤムヤな結末を了とする国民性があるのだろう。
木蓮が明日頃満開となり、青空に白い花を咲かせる。それが終わったらいよいよ満作、木瓜、牡丹、桃と咲く。熱帯の花は毎日咲くが、四季のある日本では季節に一度に咲いて、また一年待つことになる。これも儚い。 日本人に無常ということがなんとなくわかるような気がするのは、そんな折々の花も影響しているのかもしれない。