25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

春の嵐

2017年03月07日 | 文学 思想

 「春の嵐」と言えばへルマンヘッセ。高校生のころが懐かしい。もうどんなことが書かれていたのか忘れてぢまったが、ドイツの若者の内面的な思いや激情がみずみずしかった。あの頃はこちらも感性だけで読んでいたのだろう。

 ドイツ。「ワルキューレ作戦」ヒトラーを倒さないとこの国は将来の禍根を残すと、軍部の一部がたちあがる。結局首謀者たちは処刑されたが、それから八ヶ月後にヒトラーは自殺した。人間のちょっとした俊巡が決断の時間をほんの少し遅らせた。それが作戦の狂いとなった。

 ドイツは国家をもって戦争の反省をした。日本はその辺を曖昧にした。一国の首相が謝罪の旅ができないのである。

 アメリカのトランプ大統領と正反対の意見をもつドイツ メルケル首相の会談がもうすぐある。どんなことをメルケル首相が言い、トランプはどういうのか注視している。

 現実の春の嵐が今日吹き荒れた。そうして一日一日と暖かくなってくる。四月は新学期だからか、何か習ってみようかという気にもなる。今年になって、グローバル経済、経済政策、現在の経済状況、地政学的な見地でみる経済、来るべき社会の経済、AI や lot について勉強した。

 新しい語彙はすぐに忘れるのだが、理解力は向上しているように思えるので、知識は吸収されているのだろう。

 テレビをつけるだけで豊洲と北朝鮮、トランプについては相当詳しくなったが。


北がミサイルを射てば

2017年03月06日 | 社会・経済・政治

   北朝鮮がミサイルを日本海に射つと、そのたびに日本は右傾化していくように思える。右の極右は復古主義で、明治憲法への回帰である。今時そんなものがあるものか、と思っていたら、それが徐々に幅をきかせているのである。

   いよいよ自民党は憲法改正へ発議する、と昨日の党大会で安部首相が大声で檄をとばしていたから、この三年くらいの間で実行に移すのかもしれない。

   僕は自衛隊を災害救助隊と自衛隊に分けて、自衛隊の方は専守自衛だだけでよいと思う。憲法改正案にもいろいろあって、改正論者がすべて自民党案ではないことは自明のことだ。

   憲法は国民を縛るものではなく、権力を縛るものである。まずこの大原則の確認が必要である。

   政治家の暴走を防ぐためのものなのだ。アメリカからの押し付けられたものだというレベルの話などではないのである。まずこの論議が広く行わなければならない。

  論議では押し黙り、陰でゴニョゴニョする日本列島人の悪癖は戦後の70数年後にどう変わっていふのだろうか。「A  LIFE  」のようなドラマが未だに存在するのだから、内に感情を押し込んだ末に、突然歪曲に吐き出す、という結論になりかねない。その点では「ドクターX」の方が湿っぽくなく、ドラマとしてすっきりしている。

  どうなるのか日本国憲法。どうでるのかトランプ大統領と習近平。顔色を伺うことはやめて堂々と仲良くやってほしい。ミサイルが飛んできたら引き返してしまう装置はできないものか。武器を無化する方法を誰か考えださないものか。リアルに考えてみたことはあるのだろうか。こんな研究こそ自衛隊の仕事でもある。

 

 


折々の花

2017年03月04日 | 日記

   有吉佐和子の「芝桜」と「木瓜の花」を読んでからすっかり木瓜の花にはまってしまった。木瓜にも実に多くの種類がある。実をつけないといわれる「淀の木瓜」

をこの目で見てみたいものだが、コメリでは残念ながら

見当たらない。家の名も知らぬ木瓜の花は蕾がで始めた頃なのに、北浦の実家の前の木瓜は今が満開である。やはり日当たりの関係なのだろうか。目に染みるように花をしげしげと見る。あの生きるに凄腕の蔦代はこまめに木瓜を育て、丹念に手入れをしていた。それだけでこの女は悪人などではないとわかる。ちょっと人を利用するのがうまいだけだ。主人公の女性はなんども蔦代と縁切りをしようとするが、結局腐れ縁は解消しない。戦前、戦中、戦後をみごとにおもしろおかしく、しかも有吉佐和子の着物の知識も満載で良い小説だった。

  現代の人が読めば、昭和という時代がどんなものだったか、驚くに違いない。人間はいろいろあるものの、今ほど神経質ではなかった。近代社会はまだ未成熟で、逆におうようでもあった。

  よく日本人は家の内側を飾り、西洋では外側に出窓などで、外の人に見えるように飾るとか、西洋人は風呂にあまり入らず、日本人は清潔好きだともいわれた。

 日本人論も流行した。戦後70年もすれば日本人も様変わりするのかと思ったら、風俗が変わり、歌が変わり、ダンスなども変わるくらいで、責任という概念は虚無のままで、東京のど真ん中に、空虚が存在するかのように、責任は空虚化している。

 こころのありかたの部分で日本人はさほど変わっていないように思える。ウヤムヤな結末を了とする国民性があるのだろう。

 木蓮が明日頃満開となり、青空に白い花を咲かせる。それが終わったらいよいよ満作、木瓜、牡丹、桃と咲く。熱帯の花は毎日咲くが、四季のある日本では季節に一度に咲いて、また一年待つことになる。これも儚い。 日本人に無常ということがなんとなくわかるような気がするのは、そんな折々の花も影響しているのかもしれない。


人間の強さ、弱さ

2017年03月04日 | 日記

   東日本大震災で妻の両親がなくなってから6年になろうとしている。合同七回忌をするということで妻はいわき市の故郷へ出かけた。3月11日。地震速報がありすぐに電話をしたが電話に誰もでなかった。

 家にいた両親を助け出そうと、息子は車で向かったが、ちょうど家の前で待つ両親を見たところで津波が来た。息子の車も津波に呑み込まれた。だが水圧がかかり、後部のガラスが運良く割れた。彼はそこから脱出した。両親はそのまま呑み込まれ流された。2日ほどで遺体が発見された。

 千年に一度という大地震であった。いまなお余震が続いている。あまり目立つこともなかった福島県はフクシマとカタカナになって原発事故で有名になった。

 フクシマ原発の事故の後始末は今なおできていない。

 ドイツが脱原発を決め、台湾も決めた。東芝も、この大地震で傾きかかっている。東電は政府に庇護されてやっている。

 あらたな電力装置の開発が進んでいる。まだ道半ばなのだろうが、水素発電、マグネシウム発電、バイオマスカ発電。簡単な自家発電装置。人間は癌を克服していくように、このような科学的問題は克服していくのだろう。

 強面、弁達、執着、コネ利用、権威主義、幼稚園の理事長が愛国心だの家族の絆(家族主義)とは笑わせる。

 また権威をそんたくしているように見える官僚のひ弱さにも呆れもする。これほどストーリーが丸見えのような事件なのに、謎のままで、違法性が今のところない、というのは詐欺がより巧妙化でぃているのと同じだ。

 科学は進歩しても、人間の関係から生じる事柄はキリストや仏陀が生まれたころから変わらないと思わせる。 


不可解

2017年03月03日 | 文学 思想

 日本会議には国会議員懇談会と地方議員連盟などの政治家団体がある。目指すことを天皇を元首とする国家であり、そのためには剣法を改正するというものである。この団体が気になって昨年いくつかの本を読んだ。

 4割ほどの国会議員が会員となっている。賽銭程度の付き合いというひともいるのだろうが、小池百合子も、石原慎太郎もメンバーである。

 椛島有三が事務総長であり、元成長の家学生運動の出身である。彼は日本青年協議会のボスでもある。同じビルの同じフロアに「日本政策研究センター」がある。ここの代表は元成長の家広宣部長であった伊藤哲夫である。彼も元成長の家の政治活動員であった。この日本政策研究センターが安部首相の政策シンクタンクである。

「生長の家」はいつの間にか、せんぜんの国家神道支配の軍事警察、家父長的家族制度への回帰を目指す窮極の保守反動となったが、近年政治運動から撤退している。成長の家は教祖谷口雅春が亡くなってから谷口の子供が引き継ぐ穏健な現在の成長の家と「原理主義派」に分かれた。この原理主義派がこまめに活動をして今日の政権中枢に入るまでに至っているのである。

  日本会議のスローガンは、
1.憲法改正
2.教育基本法改正
3.靖国公式参拝の定着
4.夫婦別姓法案反対
5.より良い教科書を子供たちに
6.日本会議の主張の発信

 これでもって国民運動と称して活動を行っている。スローガンを見ればわかるように、経済的なスローガンはない。思想・信条的な団体である。ということで、村山談話とか戦後70年安倍談話などの談話内容にはこだわりを見せる。ときには参議院の議長室にまで押し入りり、圧力をかける。僕には日本は侵略戦争されたと認めても侵略戦争をしたという勇気や潔さがないように見える。

 現在揉めている森友学園の籠池理事長日本会議ものメンバーである。日本会議国会議員懇談会では安倍晋三と麻生太郎が特別顧問である。第二次安倍改造内閣ではでは、日本会議国会議員懇談会会員の中から15人が入閣した。第三次安倍第1次改造内閣でも会員が12人入閣している。

 1969年学園紛争が各地の大学に広がり、70年安保改正時を頂点として全共闘運動が盛ん立ったころ、長崎大学では右派の青年たちが学園正常化に取り組み、学生自治会を右派が運営することになり、この運動は九州、四国の各大学に広がった。また全国でも賛同する若者もいた。その中核的な存在は「成長の家」であったことは言うまでもない。

 彼らは地方議会には請願書提出を議員に請い、偏った報道と思えば圧力をかけ、テレビ局にはこまめに抗議の電話をするという手法を使う。朝日新聞がどうやら大嫌いらしい。

 天皇が元首となり、靖国神社を参拝させ、ファシズムにつながった教育勅語、家父長制などの復活など僕にはとんでもないと思うのだが、本気でそんなことを思って日本会議に名を連ねる人がいるとは僕には俄かに信じがたい。舞の海も入っている。

 ちなみに神社本庁統理、神宮大宮司、神社本庁総長、東京都神社庁庁長、神宮少宮司、靖国神社宮司、明治神宮宮司などが役員として名を連ねているが、無名の地方の神社の宮司のブログを読むと、政治にかかわる宮司というのは1%ほどのことだという。彼らは伝統的なことを政治的にではなく粛々と日常の中で行っているだけのことである。

 民進党の前原誠司、松原仁、長嶋昭久も入っている。仏教界もモラロジーなども入っている。緩やかな団体であるように見える。

 森友学園の籠池理事長のやり方は椛島のやり方とよく似ている。しつこさ、押しの強さ、狭い世界観、差別。

 いくら有名人や団体の長を冠においても、日本の沈黙している庶民は復古主義を望んでいないと思う。天皇とて不快なのではないかと思う。今回の森友学園国有地払下げ事件からいろいろな人脈が明らかになってくるように思う。おそらく安倍首相とマスコミと食事会などというのはやめるべきで、メディアはこういうときこそ、取材に必死にならなければならない。

 


ルーティーン

2017年03月01日 | 日記

 相撲やラグビーなどでルーティーンという言葉が登場してきた。琴奨菊のルーティーンはよく知られている。

 一週間や一ヶ月が過ぎるのが速い。すぐに土曜日がくる。そんな話をしていたら、ある人が、毎日が同じことの繰り返し、ルーティーン化していると月日が過ぎるのが速いという。

 小学生の頃は時間や月日はとても長く思われた。それは遊ぶことが多く、いろいろなことが無限のようにあったからなのだろうか。

 そう言えばバリ島に通っている時やバリ島に滞在しているときはやや時が過ぎるのは遅かったようなきがする。

 この頃の日常生活はまったくルーティーン化している、もっと活動を増やせばやや時の過ぎるのが遅くなるのだろうか。

 人生を円のようだと考えれば、歳をとっていくことは、だんだんと中学生、小学生、幼児の頃と戻っていくのだろう。すると、老年のある時期から時間がとても長く思えるようになるのかもしれない。

 脳の働きが活発ならばたとえルーティーン化していても、時間の速度は遅くなるのか。いやいや、これには身体の能力も関係してくるのか、興味深い問題であるように思う。

 好きなことをやっていれば時間の速度が速いということもありえる。

 先の毎日が同じルーティーンだと言った人の言うこともわかるような気がするので、考えてみたが、どうにも考えがまとまらない。

 人間は複雑にできているが、規則的であるというより実は不規則性の方が多い。でなければ、夜働く人も、毎日のハプニングも、言葉の息継ぎにしても、脈拍にしても説明ができない。不規則であることを当然だと思っている自分は規則的に生きることに執着しない。そんなところにルーティーンの問題は落ち着いてしまう。

 おそらく琴奨菊のような取り組み前の決まった所作は精神の乱れを防ぐためにするのだろう。人間の生活にルーティーンはどうやら持ち込めないような気がする。