2112 私がいなくても、インドネシア人スタッフだけで、製造も客先対応もできている。分けのわからないことを口走って、変な間接費を負担させて、変に足を引っ張る人物がいないのだから、普通に利益は上がるし、プレッシャーを感じることはない。今までの会社があまりにも無駄なことを強いていたかを、全員が感じていると思う。「インドネシア人のためのインドネシア人に依るインドネシア人の会社」を目指す私にとっては、スタートである。インドネシアでの仕事の最終章の始まりである。
原料を借りる手伝いを遠隔操作で行った。
エアーチケットが届いた。郵送をお願いしてあったのでした。その直後、タイミングよく、電話が掛かってきて、届きましたか、という内容でした。日本では、そこまでやるのか、という印象だった。そして、4日にインドネシアに戻ることにした。全てが、そろっているが、車だけ、借りて置いてと、頼んである。5日から、活動するが、先ず、しなければならないことは、アドバーザーとしてのワーキングビザの習得である。無い状態で仕事をしていると、危ないことが予想されるからだ。
既に気持ちはインドネシアに移動している。
売買契約が済み、30%の前金を振り込んだ後、装置の移転を始めようと通知をしたことを受け、売主から30%の頭金だけでは、装置の移動は認めないと言い出したことに対して、インドネシア人買主から、契約内容についての説明を求めたメールに対する返事、原文のままでした。
日本人でも、理解できない文章があって、インドネシア語にトランスレートができない。私の習慣を入れるしかない。
既に、移転が終わっているので、書ける事です。
家の近所には、数多くの老人介護というか、老人を預かる施設がある。“何とかの里”とか“何とかの家”という。私の家の隣にもあるので、行く気になれば直ぐにでも行ける。 日本社会を象徴している。私より、かなり年上で、なおかつ、体が不自由な方々が、付添いの人と共に、その施設の周りを散歩?している風景に良く出会う。車いすの場合が多い。
自由 フリー ベバス