自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★能登の旋風(かぜ)-5-

2008年09月27日 | ⇒トピック往来

 能登エコ・スタジアム2008のシニアコース(シニア短期留学)の受講生11人の中に父親が奥能登・門前(現・輪島市門前町)の出身という東京の女性Mさんと、横浜市鶴見区にある総持寺と縁があるという横浜の女性Nさんがいた。総持寺はもともと門前にあったが、明治の大火で本山を鶴見に移した。焼けた寺はその後再建され、祖院となった。9月16日午前のプログラム自由時間を利用して、MさんとNさんを誘って門前地区を訪ねた。

      ルーツ探しの旅

  門前地区は昨年3月25日の能登半島地震で震度6強の強い揺れに見舞われ、全壊家屋もここに集中した。総持寺の手前にある興禅寺を訪れた。震災で寺は山門と地蔵を残し崩落した。再建は始まったばかりで、基礎のコンクリート部分が出来上がった状態だった。山門の下には「再生」と書かれた賽銭(さいせん)箱が置かれてあった。再建協力を呼びかける札を読むと、「仏弟子の初心に還りたいと思います。どこまでやれるかわかりませんが、やってみようと思います」と書かれてあった。65歳以上の高齢者が47%も占める過疎と高齢の街。ここで寺を再建するというのは相当な覚悟だろう。「どこまでやれるかわかりませんが、やってみようと…」の文言に住職の苦悩の決意がにじむ。

  次に訪れた総持寺もまた被災し再興途中だった。僧堂の再建工事は屋根の部分まで進んでいた。MさんとNさんはここで「瓦寄進」をした。瓦に祈願の文字を書き、お布施をする。亡き父親が当地出身というMさんは「先祖供養」と書いていた。鶴見の総持寺と縁があるNさんは「一家繁栄」を祈願した。Nさんはさらに総持寺と縁を感じることになる。僧堂の建築現場に近づいてみると、長男が勤める建築事務所(東京都)がこの僧堂の設計・管理に携わっていたのだ。「大変名誉な仕事をさせてもらっている。親として素直にうれしい」と目を輝かせた。

  さらにここからルーツを訪ねる旅が始まる。Mさんの父親の生家を訪ねることにした。Mさん本人も幼い頃に何度か訪れたことがある。ただ、Mさんの記憶は「剣地南(つるぎじみなみ)」という地名と「川のそばの家」という2点。先祖はここで造り酒屋を営んでいた。屋号を「黒兵衛(くろべえ)」といい、「真善美」という銘柄の酒をつくっていた。ところが父親が事業に失敗して東京に行く。Mさんは東京で生まれた。現在は輪島市門前町剣地となっている住所にMさんの父親の生家跡を探したが、かつての「黒兵衛」という屋号の酒屋を記憶する人はいない。あきらめて帰る車の中で、Mさんは「弁護士だった息子が能登の父の実家をいっしょに訪ねてみようと話していたんですが、その息子は45歳のとき腫瘍を患って他界しました。それから12年経ちます…」と語り始めた。約束を果たさぬまま先立った息子への思いも募ったのか、Mさんの顔は曇りがちだった。

  そのときだった。「剣地」で探すのではなく、「南」で探してどうかとひらめくものがあった。車を降りて、土地の人に「近くに南という在所はありますか」と尋ねた。すると、「それなら阿岸川の山手にあるよ」と教えてくれた。ここで「川」と「剣地南」がつながった。川沿いに車を走らせると、北陸鉄道バスの「南」バス停があった。ここでMさんと車を降り、道で出会ったお年寄りに「ここにかつて造り酒屋がありませんでしたか」と尋ねた。すると古老は「『くろべえ』だろう。向うの一角がそうだったよ。いまは当時の蔵しか残っていないが…」と杖を上げて指し示してくれたのだ。Mさんはすかさず「私は黒兵衛の娘です」とお礼を言うと、古老は驚いた様子だった。

  Mさんの父親の実家は戦前に人手に渡り、いま当時のよすがをしのばせるものは酒蔵の一部を改造した民家だけだ。それでもMさんは周囲を眺め、しばらくたたずんでいた。Mさんはいま84歳、およそ80年ぶりに訪ねた父親の生家、祖先の地だった。

 ⇒27日(土)午後・金沢の天気   くもり

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