「文明論としての里山」のシリーズの中で、「持続可能な社会」や「生物多様性」という言葉をよく使ってきた。長らくあり続け住みよい社会、自然と共生する人間のあり方を当然として論じてきたわけだが、では、人はなぜそのようなあり方が「よい」と思うのだろうか。少々理屈っぽくなるが、考えるヒントとしてある著書で出会ったので紹介を交え考えてみたい。
ミームは選択を始めた
『なぜ飼い犬に手をかまれるのか』(日高敏隆著、PHPサイエンス・ワールド新書、09年)はタイトル名で注文してしまった。「飼い犬に手をかまれる」という言葉は、部下の反逆を意味する。それに、「なぜ」と付されると、科学の領域のような感じがして手を伸ばしたくなるものだ。動物行動学者の日高氏については、個人的に一度だけエピソードがあり、この『自在コラム』でも紹介したことがある。
本論に入る。『なぜ飼い犬に…』の本文は新聞に掲載したコラムを集めて編集したもので、読者に分かりやすいように書かれている。その中の「なぜ老いるのか」では、人間が死後に残せるものが2つあると述べている。一つは遺伝子である。これは生物が子孫に伝えていく生物の「設計図」。もう一つは、人間が伝える文化だという。イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスが最初に言い始め、遺伝子のgene(ジーン)にならって、meme(ミーム)と名づけたもので、「遺伝子以外にも存在しうる理論上の自己複製子の例として提案した」と「ウィキペディア」では紹介されている。ドーキンスが唱えたミーム=情報伝達における単位としての定義だが、具体的な例として、著書を引用すると「人間は後世に技術や業績、作品、名声を残すことができる。これらがミームである」と。日高氏は、ドーキンスのミーム論を著した『The Selfish Gene(利己的な遺伝子)』の訳者として、ミーム論を支持してきた。
日高氏は続けてこう述べている。「そのミームが遺伝子と異なるのは、伝わる相手が自分の子孫だけではないことだ。ミームが伝わっていくのは、たとえば教え子であったり、読者であったり、民族であったり、信者であったりする。よくもわるくも、人間という生きものが、地球上で繁栄しているのはミームによって複製され、伝えられる文化によるものなのである」。文化の存在は、人が人へと伝えることで続いていく。人間は多くのミームを残そうとするが、よいミームは広く伝わり文化として継承され、わるいミームはやがて消えてしまう。
ここからは宇野の勝手な解釈である。自然の支配と改造はヨーロッパ諸国を中心とした人々の願望だった。その願望に沿って、植民地獲得競争や、化石燃料の活用による産業革命が起こり、その成果に乗って近代文明を築こうとすると情熱がさらに膨張し、ついに宇宙にまで到達した。資本主義や社会主義というイデオロギーも、この波を支える力として作動したにすぎない。その反動として、化石燃料の使いすぎによる地球温暖化や、その連鎖される気候変動が起きて、地球環境問題が人類の大きなテーマとしてクローズアップされてきた。「支配と改造の発想はもう限界だ」とアル・ゴアやレスター・ブラウンらが世界中で訴えて回り、それまでも先駆者たちが唱えてきた「持続可能な社会とは何か」「生物多様性をどう守るのか」という問いに、人類が気づき始めた。
これを日高流に言えば、「次世代に伝えるミームの大転換」が始まったのではないかと考える。再度、著書を引用する。「人間を特徴づけている文化は、ミームによって伝えられ、その拘束は、表面上は生物としの本能よりも強固なものになっている。ミームは複数の文化を生み、それらは反発したり、融合したりして、またミームによって次世代へ伝えられる。その過程で人間は殺し合いをしたり、生物としては死ぬ状態にあったものが延命されたりする」
地球の支配と改造を続ければ、人類は生物として死ぬ状態にある。延命するためにどのような選択をすればよいのか、ミームがうごめき始めたのではないか。著書からこう読み取った。「人類の英知」などという政治的な表現ではなく、生物学的な表現で捉えたところが斬新でもある。
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