自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★「無料のランチ」

2012年08月07日 | ⇒ランダム書評
 経済理論の講義などでよく使われる「無料のランチなどない」の格言は、今に生きる日本、欧米諸国にとって身に染みる言葉になった。産業革命が始まって150年間、化石燃料をエネルギーとして使い続け、それによって産み出されるサービスや商品に満たされる消費文明を謳歌してきた。しかし、われわれが何か便益を得れば、そのコストは必ず誰かが負担することになる。タダの飯はない。どこかでツケ(勘定書)が回ってくる。しかし、アメリカは地球温暖化ガス排出権に絡む京都議定書に参加しなかったように、これまで極力、その負担を避けようとしてきた歴史がある。『世界を騙しつづける科学者たち』(楽工社、ナオミ・オレスケスほか著)は、酸性雨、二次喫煙、オゾンホール、地球温暖化などの環境問題を事例に、これら環境保護論に関する科学者たちの研究に、「地球を束縛するものだ」と毛嫌いする一部の科学者たちがそのつど疑問を投げかけ政府の対応を遅らせてきた「科学史」を分かりやすく紹介している。アメリカ政府が国連の生物多様性条約を批准していないこともその延長線上にあるのではないかと思えてきた。

 原題(『Merchants of Doubt』)の直訳は「疑念の商人たち」。信頼に値する全米科学アカデミー総裁を務めた人やアメリカ合衆国政府の科学顧問らの実名を挙げて、環境保護に関する研究をことごとく批判してきた経緯を列挙している。それらの肩書を持つ科学者の語りや論評、書評、著作だったら、取材するジャーナリスト、あるいは彼らが書く『ウオールストリート・ジャーナル』『ニューヨーク・タイムズ』での掲載記事は読者は信頼するだろう。ところが、肩書きを持った科学者たちの論は一見して健全な科学批判に見えるが、タバコ産業などの企業と組んで環境保護に関する研究に疑念を売り込み、政府の対応を遅らせてきた。だから「疑念の商人たち」なのである。

 アメリカらしいのは、「疑念の商人たち」の多くはソ連との冷戦時代にSDI(アメリカの戦略防衛構想、別名「スター・ウォーズ計画」)を推し進めた物理学者たちだった。冷戦崩壊後は、資本主義の「総本山」アメリカを揺るがすと彼らが警戒する新たな敵が、環境保護論を研究ベースで進める研究者たちだった。「疑念の商人たち」は環境保護論の研究者を「スイカ」と称する。外側はグリーンだが、内側はレッドだ、と。環境保護の政策化は市場規制であり、さらにその先にあるのは共産主義的なイデオロギーだ、というのだ。

 この本を読んで驚いたことに、『沈黙の春』の作者レイチェル・カーソンがいま「レイチェルは間違っていた」「殺虫剤DDTの禁止はヒトラー以上に多くの人を殺した」とネットで攻撃されたいるということだ。著書が発刊され、3代の大統領がこの問題を慎重に審議し、10年後の1972年にニクソン大統領がDDT使用を禁止したにもかかわらず、である。その論拠は、何百万人ものアフリカ人がその後、マラリアで死んだというのだ。そのネットの発信元がくだんの「疑念の商人たち」関連の研究所だ。著者たちは丁寧に反論している。たとえば、世界保健機関(WTO)はマラリアの流行している国々で引き続き使うことや、アメリカ国内でも公衆衛生上の非常事態の場合は販売することができる、などDDTの使用は一切禁止という措置ではないのである。

 いくら肩書きがよくても「疑念の商人たち」の矛盾もある。共通するのは、批判している科学者たちの専門は、批判する分野ではなく、その道の「専門家」ではない。専門外からの批判は大切だが、現代科学は分野外の科学者が論評や意見をできるほど単純ではない。科学はピアレビューという科学者間の厳しい審査の積み重ねを得て担保される。かつての「SDI冷戦の戦士」である物理学者たちが、その肩書きによって医学や気候変動について科学的に批判できるかは疑わしい、と本著の結論で述べている。著者は「権威への妄信は真実の敵」という言葉を引用し、読者に訴えるとともに、批判にさらされた科学者たちの「冷笑主義も真実の敵だ」と述べている。アメリカの科学と政治の現実が見える。

 冒頭で述べたように、アメリカが国連生物多様性条約を批准していない。アメリカの製薬企業は遺伝子利用で最も利益を上げており、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10、名古屋市)ではオブザーバーとした参加しただけだった。途上国にある動植物の資源なしには新製品を開発できない。だから保護しなけらばならないのだが、条約に易々と加盟するば、国際規制で市場の自由主義が失われ、アメリカの利益も失われる、そう考えているのだろう。アメリカはいつまで「無料のランチ」をむさぼろうとしているのだろうか。いつの日かツケは払わされるものだ。

⇒7日(火)夜・金沢の天気  はれ
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