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葬送

 8月1日に伯父が帰天した。その葬儀が昨日あり参列した。「帰天」と書けばお気づきの通り伯父はカトリックの信者であったのだが、郷秋<Gauche>は、その葬儀が四谷の聖イグナチオ教会で行われるとの連絡を受けるまで、伯父がカトリックの信者である事を知らなかったので大いに驚いたのだが、87歳で帰天した伯父は2年前、85歳の時にカトリックの洗礼を受けていたことを葬儀当日に知った。

 亡くなった伯父は私の母の兄で12人兄弟の五男、母のすぐ上の兄であった。伯父は多くの兄弟姉妹の中でただ一人学問の道を歩み、某国立大学の学長を務め、退官後は更に某私立大学の学長も務め10年前には勲二等瑞宝章叙勲するなど、云わば一族の出世頭であったからその葬儀は盛大で、約800の会衆席の半分以上が埋まったかに見えるほどの参列者があった。

 郷秋<Gauche>の独り言の「旅日記」をご覧になられた読者諸兄姉は、郷秋<Gauche>が歴史的建造物、取り分け教会堂に興味を持っていることをご存知のことと思うが、そんな郷秋<Gauche>としては比較的近くにありながら、また幾度もその前を通りながらなかなか訪れる機会の無かった聖イグナチオ教会を訪ねる絶好の機会となった伯父の葬儀ミサであった(聖イグナチオ教会自体は比較的新しい鉄筋コンクリート造りの建物である)。

 学生時代からプロテスタント教会形式の教会堂と礼拝形式には慣れ親しんでいる郷秋<Gauche>であるが、カトリック教会での葬儀ミサは初めての経験であり「教養としての宗教」として、カトリックについて理解する良い機会となった。最初に伯父が「帰天」と書いたが、実はこの言葉はMicrosoft IMEの漢字辞書には収められていない、カトリック信者が死んだことを指す言葉で、文字通り天に帰る(神の元に帰る)と云う意味である。

 同じ事をプロテスタントでは召天と云う。実はこの漢字もMicrosoft IMEの漢字辞書には無く「しょうてん」を変換すると「昇天」と云う字が出てくるが、「昇天」とはイエス・キリストが死んで天に昇ったことを指す言葉であり、一般の信者は天に召されるという意味で「召天」と書く。昇天、帰天、召天は、聖職者をカトリックでは「神父」、プロテスタントでは「牧師」と呼ぶことなどと共に知っておきたい言葉である。

 自然発生的な多神信仰を含む広い意味での神道と仏教が支配する日本における我々のキリスト教に関する知識は、例えばクリスマスやイースターなどのイベントを通しての表面的なものだけであることが多いが、広く、特に欧米の文化を理解しようとする時に、キリスト教に関する知識は実は非常に重要なものとなる。一神教であるキリスト教に関する基本的な理解がないと、多神教的土壌で生まれ育った私たち日本人の多くは、時に彼らの文化を読み違えることになるからである。

 と、偉そうなことを云っても、まだまだ勉強が足りない郷秋<Gauche>であるので、今日の独り言は自戒の念を込めてのものとして、お許しいただきたい。


 聖イグナチオ教会内部の正面のキリスト像。壁に描かれた十字架の上に位置するが磔の姿ではなく、手を広げすべての人を受け入れながら天に昇らんとするように見える。


 真上を見上げるとこのような感じ。ゴッシク様式の教会堂に多いリブ・ヴォールト天井(神様のおられる天の国を表現している)を現代的に解釈したものと郷秋<Gauche>は理解したがどうだとうか。


 会堂の後方上部、つまり祭壇と会衆の背中を見る位置に設置された素晴らしいオルガン。コンサートホールに設置されているオルガンはステージ正面に位置し鍵盤はその直下にあるから、オルガン奏者は聴衆(と指揮者)に背を向けて演奏することになる(古くは鏡で、今はテレビモニターで指揮者を確認できるようになっている)が、このオルガンは、鍵盤ユニットをパイプ群から離し、奏者がミサの進行をその目で直接確かめながら演奏できるよう、合目的的に設置されている。
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