ほ~~っ、メルセデス、やりますな

 バーレーンGPのフリー2でメルセデスが1-3。残念ながらと云うのか若いチームメイトに花を持たせてあげたと云うべきか、ロズベルクがトップでミヒャエルが3番手。二人の間に割って入ったのはマクラーレンのハミルトンで4番手がバトン。う~~ん、初戦の初日から今シーズンの縮図か?

 フェラーリは7位にマッサ、9位にアロンソ。小林はチームメイトのデ・ラ・ロサ直後の11番手とまずまずの位置。それにしてもロータス、ヴァージン、HRTは遅過ぎますな。これじゃ2クラス混走。ツーリングカーでは可能でも、ここまでタイム差があるとF1では危険なんじゃないのかなぁ?
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人為的な再生が果たして必要なのか

 昨日の二つ目の記事として「鎌倉、鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊」と題する極小文を書いた。まっ、その時にはこの騒動もすぐに終わるだろうと思っていた郷秋<Gauche>であったが、これが大間違いであった事を今朝の神奈川新聞を見て気付いた。

 今日の神奈川新聞1面と22面は倒壊した大銀杏を何らかの形で後世に残すために、神奈川県知事が八幡宮と県・鎌倉市の三者による検討会設置を提案し、八幡宮宮司も同意した事をが伝えている。具体的には、倒壊した幹の一部を植え直す、倒壊した老木の根元からこの春に新たな芽生えを期待する、更には最新の遺伝子工学技術を用いて同じDNAを持つ銀杏の再生も検討されているようである。

 しかしだ、倒壊した根元からの「ひこばえ」ならともかく、倒木の一部を植え直す(つまり挿し木だろう)とか遺伝子工学技術を使ってまで再生する必要があるのか、郷秋<Gauche>には疑問だぞ。「ひこばえ」が育つのだとすれば、それは老木が倒れた後に若木が育つという自然の摂理であるが、人為的な再生を試みる事が果たして自然の摂理に適うことなのだろうか。

 鶴岡八幡宮の大銀杏再生は、湿原や滝などの景観保全と同じ問題を抱えているのではないかと思えてならない。例えば、ある美しい湿原があったとしよう。その湿原か乾き始め樹木が生え、美しい湿原の景色が喪われようとすると、人はその湿原(の、人が見て美しいと感じる景色)を守る為に、近くの川の水を引き入れるなど、湿原を「守る」策を講じる。

 勿論郷秋<Gauche>は自然環境の専門家ではないけれど、湿原は、その場所の植生が最終的に行き着くまでの過渡期に現れた一過性(と云っても数十年とか数百年のスパンでの話だ)の状況であり、自然はその地にあった最終的な姿に向かって少しずつ進んでいくはずである。その進み具合と人が見て美しいと思う景色とはなんら関係がないはずである。ある湿原の渇きを止めることは、自然が行こうとしている流れに人が竿押さす行為に他ならないのではないだろうか。

 名瀑がある。これとて数千年あるいは数億年前に出来た地表のずれによってたまたま出来たもので、それを人間が見て美しいと思ったから「名瀑」なのである。自然にとっては、地表のずれによって生まれた単なる水の流れの一つでしかないはずである。ところがこの名瀑の廻りの岩が崩れそうになると、人は岩の奥側にトンネルを掘り、崩れようとする岩を内側から止め支えようとする。自然に崩落させればよいではないか。

 地表が隆起して出来た荒々しい山々は億単位の年月の風雪によりなだらかな山地に変わっていくのだと大昔に習った気がする。ならば、名瀑の廻りの岩が崩落するのも険しい地表の段差がなだらかにものに移り行く自然の営みの一つのはずである。「名瀑」の景観を守る為にその崩落を人為的に止めることは、地球の営みを止めようとすることではないのか。

 湿原が乾き森となるのも、地表の大きな段差が崩落によりよりなだらかなものに変化するのも地球の営み。人が作った石垣や城郭、寺院の崩落を補修するのとは次元が違う話だろう。大銀杏は千年にも及ぶその命を全うし倒壊したのである。そのままにして置けばよい。倒壊した後から新たな芽生えがあるのならばそれを大切に育てれば良い。これまでの景観を少しでの保ちたいと思うのならば、運べる限りの大きな銀杏を移植すれば良いだけのことである。


 昨日は「こちらをご覧あれ」と書いたけれど、面倒な方もおいでになるだろから、二度目の登場であるが昨日、今日の話題となっている大銀杏の写真をここにもおいておくことにする。
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