弁護士太田宏美の公式ブログ

正しい裁判を得るために

エリザベス女王の言葉(信じてもらうためには見てもらわなければならない)から学ぶことー弁護士の視点で

2022年09月23日 | 弁護士の仕事

始めにーエピソード

9月8日死亡から19日の国葬までの12日間、世界はエリザベス女王一色で塗りつぶされた。エリザベス女王は一生を公務に捧げると誓った。そのとおりだった。2日前の6日に新首相のトラス氏をスコットランドのバルモラル城に招いて指名した。最後の公務だった。リラックスした服装と不釣り合いに見えるハンドバックがその証である。ハンドバックといえば、即位70周年記念の「女王と国民的キャラクター『くまのパディントン(Paddington Bear)』がバッキンガム宮殿でお茶をする」動画で、パディントンが「大好物のマーマレードサンドイッチをいつも『緊急用』に帽子の下に入れている」というと、女王も「私もここに入れています」と言ってハンドバッグからサンドイッチを取り出すユーモア溢れる映像は、世界中のプラチナジュビリー行事を見る者を驚かせたことは記憶に新しい。

   

   

   

We have to be seen to be believed.

 女王はいつも「We have to be seen to be believed(信じてもらうためには見てもらわなければならない)」と言っていたという。ダイアナ妃の事故死をきっかけに始まったものと推測される。人によって解釈は異なるかもしれない。しかし、単なる広報とか情報公開とかトランスペアレンシーとは異なると私は思う。受動態になっていることがポイントだと思う。言葉のとおり、行動をみてもらうということではないか。女王は露出を増やし、国民に寄り添うメッセージを積極的に発信するようになったという。今回の国葬はその実践の集大成のように思う。国葬で、チャールズ国王を筆頭にシニア世代の子供たちや孫のウィリアム皇太子やハリー王子が女王の棺の後ろを決して短くはない距離を歩く姿は、女王にお別れをすべく長い行列を作って何時間も待つ一般弔問に訪れた人々の姿と重なる。結局は、共感ではないだろうか。
なお、次男のアンドリュー王子(及びハリー王子)については、私的部分では軍服着用していたが、公的部分ではしていなかった。これは、女王というよりは、他の者が、女王の言葉を実践していたのではと思う。女王も人間である。完全無欠ではない。

女王は時代の変化とともに年齢とともに変わった。公務に捧げる姿勢が生涯変わらなかったからこそ、見る者・信じてもらう者の変化に女王が柔軟・適切に対応し続けることを可能にし、信頼に応えることができたのだと思う。根底には、君主制の存在に対する時代の変化に対する危機感もあったであろう。君主と国民は、持ちつ持たれつである。極めて現実的人間だったのでは思う。

学ぶことーその1(安倍元首相の国葬)

主に二つある。

一つは、折しも日本では安倍元首相の国葬反対の声が大きくなっている。女王の死亡により、10日後の29日が安倍元首相の国葬となった。皮肉なものである。国葬とは何かを考えるいい機会となった。

国葬とは「国家にとって特別な功労があった人物の死去に際し、国費で執り行われる葬儀」のことである。国葬の対象は国によって異なる。米国の場合は、大統領経験者は在職中の評価とは関係なく基本的には対象となる。ニクソンは辞退したという。英国では、国葬の対象となるのは原則国王であり、厳格に定めた儀式による。(以上、ウィキペディアによる)

なお、エリザベス女王の場合、棺が霊柩車で運ばれる場面と海軍の砲車で運ばれる場面があったが、砲車部分が国葬で、霊柩車部分は王室行事ではないかと思われる。日本の場合も天皇の崩御に際し行われる「大喪の礼」は国葬として、宗教儀式として行われる「大喪儀」は皇室主催儀式という。

1 実質的理由

安倍元首相は総体としての国民を納得させる程度に、吉田茂の第二次世界大戦敗戦からの国家再建という功績に匹敵するほどの国葬に値する功労があったかである。

①誰もが銃撃にショックを受けたことは事実であるが、銃撃そのものは、警備体制の不備というお粗末な理由による。

②テロの被害者だという人もいるが、テロとは「政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いること」である。宗教(統一教会)を巡る家庭内の問題であり、政治的目的でないことは明らかであり、テロではない。テロの被害者には該当しない。

③銃撃に遭った際、安倍元首相は党派を超えた大義のために戦っていたわけではない。一自民党候補者の参議院選挙応援演説中に起こったにすぎない。一候補者のための私的政治活動支援中の事件である。せいぜい、自民党党葬までである。

④憲政史上最も長く首相を務めたという。通算3188日(8年と268日)は最長とはいえ10年以下である。英国のサッチャー元首相は20世紀以後の最長記録の11年と208日という。在任期間の長さをいうなら、70年とはいわないが、やはり、社会通念では最低10年が基準ではなかろうか。短すぎる。

⑤実績についての評価である。英国のサッチャー元首相(鉄の女)について、フォークランド紛争を勝利に導き、その勢いで不況にあえぐ英国社会を建て直したが、一方で貧富の差を拡大したとの非難がある。国民の評価は二分していた。首相当時のサッチャー氏が、グラフを基に、格差拡大したとしても、すべての層の富(収入)の絶対値が増加したのだから、いいのではないかと議会で説明するのをテレビで見た記憶がある。ちょっと違うかなと感じたことを覚えている。だから、サッチャー元首相は国葬を辞退し、準国葬で行われた。安倍元首相の評価も、どちらかというと二分しているように思う。個人的にはアベノミクスが成功したとの実感はない。日本経済は失われた20年を過ぎ(異論はない)、浮上することなく30年も過ぎたという声もある。

⑥政治姿勢についてである。エリザベス女王の「信じてもらうために見てもらう」という国民に尽くすという精神のことである。安倍元首相については桜の会など在任中からいろいろ問題があった。黒川・東京高検検事長辞任問題の記憶が蘇る。米国では、ウオーターゲート事件で辞任したニクソン大統領が国葬を辞退した。そこまで極端ではないが、安倍元首相の場合は、1回目は持病の潰瘍性大腸炎に悪化による任期満了前の自己都合辞任である。2回目は潰瘍性大腸炎の再発による任期満了前の自己都合辞任である。新型コロナ大流行の真最中に首相の職責を投げ出した恰好である。

2 手続き問題

これは岸田首相の政治姿勢に係わる。エリザベス女王の「信じてもらうために見てもらう」という国民に尽くすという精神のことである。政治家は国民から信託を受けているに過ぎない。その信認を裏切ってはならない。首相になるということは好き勝手ができるのではなく、逆に、重責を担う首相は好き勝手が出来なくなるということである。国葬には膨大な税金が投入される。支出増は必ず国民に跳ね返る。上述1のとおり、国葬を正当化する実質的理由は極めて弱いことを考慮すると、国民の総意を問う必要がある。すなわち、国会の議決である。必須である。

しかるに岸田種首相から見えることは、勘違いをしていることである。信頼とは程遠い。民主主義の存在意義に完全に反するものである。国民の支持率低下は、岸田首相の本質を国民が「見て」「信じられない」と判断するようになったということであろう。

とはいえ、国葬が中止になることはないであろう。政治家ではないので、妙案は浮かばないが、世界の要人を相手に結果オーライとなるよう岸田首相の健闘を祈るのみである。

学ぶことーその2(民事裁判の被告訴訟代理弁護士の使命)

二つは、民事裁判の弁護士活動に係る。訴訟代理は弁護士独占とされている。基本的人権の擁護及び社会正義実現は弁護士の使命である。刑事事件は基本的人権の擁護にかかわる。民事事件は社会正義に係わる。

刑事事件は、起訴に当たって検事の慎重な取調べが行われている。それでも無罪が起こることは避けられない。民事は誰でも訴訟提起可能である。事前の公的機関によるチェックはない。よって、根拠なき訴訟提起が起こって当たり前といえよう。

私の経験したアブラハムプライベートバンク事件はその一例である。幸い訴訟詐欺にあたるとの判決を得ることができたが、大変な苦労をした。公的機関による事前のチェックがないにも関わらず、証拠が偽造・嘘であることが確実にならない限り、民事については、裁判所は大体において原告の主張を認める。根拠がないにもかかわらず、岸田首相が国葬決定をしたのと同じである。被告弁護士も原告の主張を鵜呑みにする者が多い。嘘を証明するのは極めて困難だからである。岸田首相が国会の議決を省略したことと同じとみてよいだろう。

人権にかかわらないから誤判があっても無視できると考えられているが間違いである。刑事事件のように情状を争うだけでいいなどという安易な姿勢は到底容認されない。仮に1件1件は大きな金額でなかったとしても、誤判が多ければ、総体的見地からは社会正義の侵害は許容限度を超えることになる。嘘を見逃した誤判というのは訴訟詐欺という詐欺を見逃すことである。現在の社会は詐欺で溢れている。訴訟詐欺が横行するということは、裁判によるチェック機能が働いていないことに他ならない。法治国家の根幹を揺るがす深刻な事態であり、正常な姿ではない。

民事訴訟の被告訴訟代理人を受任した弁護士は、依頼者からの信託という点では、範囲は、委任された事件と極めて限定的ではあるが、女王業と質的には同じである。よって、行動によって、依頼者に見える形で、信じてもらえる訴訟代理をすることが使命である。弁護士独占制度の存在意義に係わることである。そういう思いを強くした。

終わりに代えて―感想

エリザベス女王の偉大さ、凄さを知った。荘厳で、豪華で、優美な国葬は、英国の歴史と国民性・文化と国力を可視化したもののようである。エリザベス女王はその体現である

棺は極めて英国的だと思う。弔花はとても優雅である。周りの人をも包み込んでしまいそう。

   

   

     

2022.9.23



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