Law&Order、シーズン19に突入しました。
シーズン18でジャック・マッコイが地方検事に昇格し、現場からは
遠ざかり、監督する立場になりましたが、主役はマッコイであることに
かわりなく、アーサーが地方検事時代には、見られなかった、監督する立場での
苦労が、見えるようになり、ドラマに深みが感じられるようになりました。
以前に、アメリカは交渉の社会だと書きましたが、それは、アメリカ社会が
人間は間違いを犯すものであること、社会や制度は不完全であることを前提
としているからではないかと考えるようになりました。
シーズン19の2回目は、40年前に障害のある子を見捨て、再度40年後に、兄弟の
罪を被らせようとする家族の話でした。
唯一の犯罪の目撃者はこの障害者です。いったんは、供述しますが、真犯人の実兄
(この事件で知り合うことになった)の身代わりとなり、供述を翻し、虚偽の自白を
します。家族の説得によるものです。
こういう場合、陪審員がどういう結論を出すかは、予測がつきません。
この障害者の供述や自白をどうみるかについては、どちらもあり得ます。
検察は、この障害者は無罪であり、身代わりとなったことを信じています。
これは、実際に捜査をしていますから、表に出ない、あるいは訴訟手続上出せない
諸々の事情がわかっていますので、こういう判断ができるのです。
40年前に家庭の平和のために見捨てられた子を、再び家族の平穏のために
兄の身代わりにさせる、今度は本人も理解しています。
それはやはり正義ではないのではないかと、検察は考えます。
陪審がどう判断するかわからない、つまり、検察からみれば、それは間違いですが
実際のところ、陪審の判断は五分五分です。
陪審が無罪の評決をしても、それを非難することはできません。
陪審制度とはそういうものだからです。
ということで、検察は取引をすることに決めます。
しかし、こういう段階で検察から取引を申し出ると、相手は、検察が自信をなくしたと
みるので、応じるわけはありません。
そこで、検察は、策を講じるのです。取引を成立させるための根回しですが、
かげでこそこそするのではなく、その障害者、すなわち、検察が無罪だと信じている
本人を、その自白を根拠に起訴するというのです。
家族も対応が難しいです。裏では、本人が無実だと知りながら、身代わりを説得している
わけですから、本人の自白が嘘だとは建前上はいえないからです。
(家族は本人は障害者なので処罰されることはないとの見通しを立てたうえで
身代わりとさせているのです)
こういう段取りをしたうえでの取引なら、可能性はあります。
そのうえで、親の愛情に訴えるというわけです。
取引成立です。
つまり、裁判の結果に間違いがある、という経験則があるわけです。
そうだとすると、正義を実現するためには、裁判を避けるしかないわけです。
アメリカではそれができるように司法取引が制度として認められているのです。
一方日本はといえば、取引は認めません。
裁判所にお任せです。
その結果はというと、事実を間違い、冤罪を生じてしまうのです。
それは制度がそうなっているからです。制度とはそういうものだからです。
無罪になったからといって、実際に罪を犯さなかったということはないのです。
裁判には、決定的でも証拠に出せないものがあったりするからです。
もともとこういう限界のある制度にも関わらず、万能であるかのように
すべてお任せにするのは、それが完全な制度だとの建前にあるのです。
日本でも、おそらくほとんどの人は間違いの裁判がいっぱいあることを経験として
知っています。しかし、決して、公言はしないのです。
見て見ぬふりです。それは日本社会がそういうことを許さない社会だからです。
要は、0か100かの奇麗事の社会なのです。
私は、アメリカ型の、間違いはあるもの、制度は不完全であるもの、だから
間違っていることが分かったら修正する、あるいはそもそも他に方法があるなら
別の選択肢を用意する、そいいう柔軟な社会であるべきだと考えます。
そして、そういうところには、心を揺さぶる、本当の人間ドラマがあるものです。
Law&Orderますますおもしろくなりました。
もっと日本のことを考えなきゃなりません。
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またまた帝国ホテルを通り抜けしました。ロビーは日本の新春の雰囲気が
いっぱいでした。