あなたは「視覚優位」「聴覚優位」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
「視覚優位」とは、目で見ることで物事を理解できる人のことを言う。それに対し、「聴覚優位」とは、耳で聞くことで、言葉を通じて物事を理解できる人のことを言う。
おかしなことに、「言語優位」という言葉さえある。これは、言葉で書かれているものを目で見ることで物事が理解できる人である。
これらの言葉は、「発達障害児」の指導の現場で使われている。また、「知能検査」の結果報告書にも現れる。
しかし、「視覚優位」「聴覚優位」とは、情報の種類に本来よるのではないか。また、「言語優位」は教育の結果生じるあだ花ではないか、と思う。
道を教えるのに地図を描いて説明することが多い。そして、多くの人はそれによって、理解が深まる。言葉は指示するに向いている。指示とは話し手が、聞き手の注意を特定のことに向けさせ、命令することである。
図は概観や構造や関係を理解するに向いている。しかし、地図を描くだけでは、工夫を凝らさないと、目はあらゆるところに行って、指示する側の思う方向に注意を向けてくれない。
新しい道具の扱い方を説明するとき、実物を手にとって説明するほうがわかりやすい。道具を使うとき、強く握るのか、軽く握るのか、口で「強く」とか「やさしく」とか言ったほうが理解されやすい。
このように、本当は、「視覚」と「聴覚」との協同が有効な場面が多い。したがって、この子は、「視覚優位」とか「聴覚優位」とかを真にうけて、型通り行うと失敗する。
会社や官庁のプレゼンテーションでは、パワーポイントかなんかでスクリーンに画面を写して説明することが多い。昔聴いた話では、みんな沢山のことを書こうとするが、1画面に1つのメッセージが望ましい、ということであった。画面に多数のことが書かれていると、聞き手の関心が拡散するからである。とくに、役人は頭が悪いから情報が多いと記憶に残らないと言われた。
コミュニケーションとプレゼンテーションとは異なる。
「言語優位」は適切な言葉でない。本やマニュアルを読んで、物事を理解するのではないと気が済まない、人のことである。書かれたものを読むときは、書かれた順に読む必要がなく、いったりきたりして読むことができる。したがって、聞いて理解するのと異なり、読み手が書き手に対し優位に立てる。書き手に支配されない。そして、わかりくい本やマニュアルに出くわすと、書き手を罵る。
私は「理数系」だから、「視覚優位」と思われるがちである。実際、作業記憶力の負担を軽くするため、考えていること、選択肢とか試行錯誤の過程を書き出すことが多い。
しかし、新しいことを聴いて理解することも好きだ。俗にいう「耳学問」である。聴くということは、対話が伴うから面白い。いろいろな質問や意見をぶつけって、ものごとの本質に迫ることができる。私は小学校、中学校、高校、大学を通じてよく質問する子どもだった。
ときには、先生の理解の浅さを引き出すための意地悪な質問もわざとした。だから、私が大学で講義したとき、意地悪な質問に出会うのでないかヒヤヒヤしていたが、そんな質問を受けることはなかった。
学生と先生の関係は、民主主義社会では、対等であるから、対話が日常的にあってしかるべきと思う。
もう1つ、「言語優位」に加えて「体験優位」という言葉もあって良いと思う。人は体験しないと本当に理解することはないと私は思う。私は、ITの会社の研究所にいたが、マニュアルを読まないで、直接、機械に触ったり、プログラムを書いたりして、その失敗の体験から学ぶことが多かった。