きょう、また、佐伯啓思が理解しがたいことを朝日新聞に書いている。『(異論のススメ スペシャル) 対コロナ戦争』である。
彼が言いたいことを一言でまとめると、日本人は頭が悪いということである。この結論自体に私はべつに異論がない。日本人に限らず、人間は頭が悪いと思う。それでも人間は生きていくのだ。
問題は、そこにたどり着くまでの論理である。
彼の小論には「西洋」「日本」「市民」「国家」「共同体」「戦争」「国家の危機」「国家の強権」「ルソー」「共和主義」などの言葉が出てくるが、「平等」「プロレタリア」「共産主義」「階級」「革命」という言葉は出てこない。
「民主主義」「リベラル」という言葉はそれぞれ一度だけ出てくるが、「戦後民主主義」、「リベラル系」というかたちであらわれ、自分の思想に反する人びとを罵るため使われている。
彼は、今は《国家の危機という「例外」状態》にあるから、「国家の強権」が必要があるというたわごとを、つぎのように述べているだけである。
《われわれは、「自粛要請」型でゆくのか、それとも、西洋型の強力な国家観を採るのか、重要な岐路に立たされることになるだろう。「自粛型」とは市民の良識に頼るということであるが、果たしてそれだけの良識がわれわれにあるのだろうか。》
この結論をだすために、偏った国家観をくどくどと書いているのである。
私はフランス語が読めないから、彼が引用するルソーの言葉もその思想もわからない。
《「統治者が市民に向かって、『お前の死ぬことが国家にとって役立つのだ』というとき、市民は死なねばならない」》
こんなことをなぜルソーが言ったのか私は知らないが、私は拒否する。
バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』のなかで、ルソーがトンデモナイお調子もので、人にたかって生き、支援をつなぎとめるために、その場しのぎの言葉をあやつっている、何の哲学もないと、ケチョンケチョンにけなしていた。
佐伯はさらに続ける。
《ひとたび国家社会に危機が押し寄せてきた時には個人の権利は制限されうる。国家が崩壊しては、個人の権利も自由もないからである。だから危機を回避し、共同体がもとの秩序を回復するために強力な権力が国家指導者に付与される。》
《「政治」とは危機における決断なのである。しかし、戦争のような国家の危機という「例外状態」にあっては、部分的には憲法の条項を停止した独裁(委任独裁)が必要となる、というのである。》
こんなことで、独裁が認められるなら、独裁者になりたいものは、戦争の危機をいつも煽りつづけるだろう。実際に、ナチスは「共同体社会の防衛」をかかげ、ファシズムは「国家社会の防衛」をかかげ、独裁体制を造り上げ、戦争に国民を導いた。私は彼に問う。回復すべき「秩序」とは何のことか。「国家指導者」とは何のことか。
佐伯は欧米がコロナ禍で国家の強権をふるっていると言うが、それは負担の「平等」という考えにもとづいており、守るべきルールをコロナ対策として明確に打ち出しているだけだ。現実には、ドイツでは、コロナ禍で私権が制限されるなかでも、デモによる表現の自由が認められている。イギリスでは、感染対策のルールを破った政府要職者は世論の批判を浴び、辞任している。民主主義は欧米で いまも 生きている。
佐伯が「共和主義の精神」と呼んでいるものはプラトンの「哲人による政治」のことである。プラトンは、アテネがスパルタとの戦争に負け、一時的にスパルタの属国になっていた時代のスパルタ派である。プラトンは、スパルタを模範として軍事強国を作るべきと考え、市民は自分の役割に専念し、政治は一部の集団が独占すべきだと説いた。そして、民主主義を批判した。プラトンの考えは、欧米社会に生き残り、エリート層による国家支配という形で、幾度も復活してきた。
国家指導者や独裁なんて不要である。コロナ禍でも民主主義が充分機能する。新型コロナワクチンは、まだ、試験段階であり、本人の同意のもとに接種されねばならない。また、「三密を避ける」「人流を抑える」という、彼がバカにする「自粛要請」は充分に機能し、「緊急事態」の宣言で感染者数が減っている。これは、「自粛要請」にしたがう良識ある人々がいるからである。
政府こそ、「自粛要請」にしたがう良識ある人々をあざ笑うがごとく、「三密を避ける」「人流を抑える」に反する政策を行う。これを批判するのが、民主主義社会の健全さである。「自粛」自体の問題ではない。
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