小学校でプログラミング教育を必修にして1年になる。小学校に英語教育を導入するも、プログラミング教育を導入するのも、実業界(経営者の集まり)の劣等感からくるものである。
ハッキリ言えば、実業界を牛耳る人たちはゴロツキである。徒党を組んで、企業の上にのぼり詰めた人が、自分の会社に入ってくる若者たちの能力がないから、海外市場で負けると泣き言をいう。派閥をつくって社内の競争相手を叩きのめすことはできるが、自分の経営能力ないから会社をつぶす。自分自身が英語の読み書きができないから、自分自身がプログラミングができないから、妙に劣等感をもって、小学校から始めよと、政治家や官僚に要求しているにすぎない。それに関係する教育産業がのっかってきれいごとを言っているだけである。
プログラミング教育は、日本の企業が「第4次産業革命」に遅れをとっているから、と文部科学省の報告書にある。ここの「第4次産業革命」とは、ソフトウェアのことをいう。
しかし、ソフトウェアが産業の基盤になることは、40年前からわかっていたことであり、日本にもプログラムできる人がいっぱいいた。40年前は、学校を出ていなくても、独学でプログラミングをマスターした人がいっぱいいた。自分で「一人ソフトウェアハウス」を起こし、自由人を自称していた。そのころのプログラマーの人件費は高く、1カ月100万円が相場であった。人件費は中国やインドが参加するとみるみる下がり、20年前には、1カ月20万から30万円になった。
収入から言えば、いま、プログラムをやる人は不幸である。
現在、IT業界自体は、大衆を煽るビジネスモデルの上に、お金を集めている。虚言でしか儲けが出なくなっている。
実業家が言いたいのは、製品の内部で働くプログラムを組む労働者を求めていることだろうが、企業の労働者がみずからプログラムを組むことは、30年前から、日本の製造業や装置産業では行われていた。企業経営者が仲間内での派閥争いに明け暮れ、プログラマーたちを優遇せず、彼らの労働意欲を失わせていたのが、現実である。
小学校から始めるか、中学校から始めるか、そんなことは関係ない。
プログラミングは、適正があれば、コンピュータとエディター(プログラム編集コンパイルソフト)があれば、いくつになっても、できるようになる。年をとっても、英語の聞き取り、発音ほどは難しくない。適性が、スピードの問題ではなく、試行錯誤する能力であるからだ。
プログラミングが小学校の必須となることは、子どもたちの成長に悪影響を与えるし、教師の負担を増す。
小学校の教師はピアノを弾けることが条件になっているが、それに英語の発音がきれいだとか、プログラミングを教えられるとか、の条件をつけると、ピアノが嫌いな教師が音楽を教え、英語が嫌いな教師が“I am a teacher”を教え、プログラミングがわからない教師がプログラムを教えることになる。
教科が嫌いな教師が子どもたちを教えれば、その子供たちも、その教科が嫌いになる。なぜなら、ピアノが好きな教師や、英語が好きな教師や、プログラミングが好きな教師なら、教材を離れ自由に教えることができる。それに対し、嫌いな教師は、教材に忠実に教えようとする。子どもたちを創意工夫ができない労働者にないようにする。
きょうは ここまでとして、あすは、文部科学省、総務省、経済産業省が共同で作った、『未来の学びコンソーシアム 小学校のプログラミング教育必修化に向けて』を批判したい。
[補遺]
書いているうちに、「労働者」という言葉に“worker"(働く人)と「賃金労働者」との異なる意味があるのに気づいた。政府が求めているのは「賃金労働者」である。
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