ジェームズ・C・スコット著の『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(みすず書房)を、ようやく、3日前に手にした。哲学者、柄谷行人の書評が不快だったので、現物で確認すべく、5カ月以上前に図書館に予約した。
なにが不快かというと、「奴隷制が国家を可能にし、国家が農業革命を可能にした」とも読める柄谷行人の要約である。
現物を手にして、スコットの本書は、読みづらい、真意を知るに注意がいると、感じた。
スコットは、彼が属している知識人の世界をクソと思って、その常識に反抗しているのだが、訳で読んでいるので、翻訳の誤りかもしれない。スコットもクソの仲間か、ほんとうの反逆者なのかわからない。スコットの評価には時間がかかりそうである。
歴史の教科書は、4大文明で始まる。なぜ、そうなのか、私にはわからない。そして、4大文明の創始者は、いまだに、文明の担い手かというと、中国をのぞいてそうではない。メソポタミア文明創始者のシュメール人は、いまどうなっているか、歴史家でも知らない。
スコット自身が指摘しているように、4大文明が養っていた人口はわずかで、世界は、4大文明と関係なく回っていた。4大文明中心に歴史を論ずるのは、本来は、おかしい。
歴史は、文字で伝えられたものに大きく依存している。だから、「歴史」を、知識人たちが作った虚構と考えたほうが、適切である。
メソポタミア文明に奴隷制があったかは微妙である。「奴隷」という概念が明確ではないからだ。スコットは「奴隷」という言葉はなかったが、それに相当するものはあったという。
同じ問題は、聖書を読んで、私もぶつかった。日本語聖書は、同じヘブライ語を、同じギリシア語を、「奴隷」と訳したり、「しもべ」と訳したりする。
古代のメソポタミア社会や地中海社会は、誰かに仕えて生きる者は「奴隷」であり、仕える主人をもたない者が「自由人」である。したがって、「しもべ」と「奴隷」は同じである。現代の会社勤めをしている者は、「社長」という主人をもつから、古代人の感覚では「奴隷」である。反乱しない「奴隷」は、スコットのいう「飼いならされた穀物や家畜と同じ存在」になる。ストライキを起こさない勤め人はクソだ。
カール・カウツキーは『キリスト教の起源 歴史的研究』(法政大学出版局)で、ローマ社会のプロレタリアと奴隷について詳しく言及している。プロレタリアとは資産をもたない自由人を言い、奴隷はだれかの所有物である人々を言う。プロレタリアは土地も職もないから、奴隷より貧しいこともすくなくなかったのである。
支配者は、プロレタリアが反乱を起こすと、奴隷を使ってプロレタリアの反乱を抑え込み、奴隷が反乱すると、プロレタリアを使って、奴隷の反乱を抑え込んだ。
残念ながら、プロレタリアと奴隷とが手を組んで、支配者と戦うことはなかった。皇帝は自分の奴隷(しもべ)を厚遇し、私兵として利用していた。いっぽうで、プロレタリアのご機嫌をとっていた。
「奴隷」とは古代社会に限られたものではない。歴史上最悪の奴隷制は、200年前のアメリカの奴隷制である。
それまでの「奴隷」は主人の所有物であったが、外見は、主人も奴隷も変わらない、すなわち、肌に色で区別されることはなかった。同じ人間であるとみなされていたのである。戦争での捕虜ばかりが奴隷になったと思われがちであるが、古代社会では、借金のかたに、奴隷になった者も多い。
200年前の奴隷は、人間だと思われていないのだ。古代にない、人種という考え方が、アメリカの奴隷制をささえていたのである。歴史の教科書に騙されてはいけない。アメリカの奴隷制は最悪なのだ。いま、アメリカで銅像を倒す人々がいるが、彼らの行動は正しい。なぜ、クソみたい人間が銅像になって崇められているのか、その怒りがよくわかる。
スコットがなぜ200年前のアメリカの奴隷制について言及しないのか、不可解である。アメリカ社会の負の遺産はまだ清算されていない。
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