これまで、佐伯啓思と意見が一致したことなんて、なかったが、けさの朝日新聞『(異論のススメ・スペシャル)「資本主義」の臨界点』では一致点があった。
佐伯は、「資本主義」と「市場経済」主義とは意味が違うといっている。私もそう思ってきた。貨幣とか市場とかがあるから「資本主義」というわけではない。
佐伯は、《「資本主義」とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて自らを増殖させる運動ということ》と書く。
私は、「資本主義」とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて、人と人の間に雇用関係を生むことと思う。
佐伯の定義は、カール・マルクスの受け売りだと思う。多くのマルクス主義者は、人間が生み出した資本の自己増殖運動に、逆に、人間が支配されると言う。私は、この受けとめ方は、資本家や経営者に優しすぎると思う。資本による「疎外」の問題ではなく、資本家個人や経営者個人の強欲のせいだと私は思っている。
佐伯も人間の強欲性に「資本主義」の問題を帰着している。佐伯は、《われわれに突きつけられた問題は、資本主義の限界というより、富と自由の無限の拡張を求め続けた近代人の果てしない欲望のほうにある》と、その寄稿を結論する。
また、この結論の前に、佐伯は《「分配」と「成長」を実現する「新しい資本主義」も実現困難といわざるを得ない》とも言う。これも一致する。
しかし、根本において、私と佐伯は異なるとも思える。私にとっての「自由」は、人に命令されたくないということである。自分で物事を判断し行動したいと私は思う。そして、他人に自分の意見を押しつけたくないし、命令したくないと思う。
資本家が資本の自己増殖にどう悩もうか、私は気にしない。
産業革命が起きるまで、社会における最大の商品市場は農産物であり、その生産手段は土地であった。土地の所有を媒介にして、人間の上下関係ができた。
産業革命後は、工業製品の市場が中心になった。土地でなく、機械、工場が主な生産手段になった。資本投下は機械、工場に行われ、その所有によって、人間の上下関係ができた。
近代の人間の上下関係は、生産手段の個人所有を中心にできているのである。IMFのデータをみると、ほとんどの国で、被雇用者が人口の50%を越えている。すなわち、独立自営の人は少なく、多くの人は誰かの指示で働いていることになる。
20世紀の終わりには、ITの出現によって、事態が変わるかと思えたが、そんなことがなく、ますます、被雇用者は増え、個人経営の「ひとりIT企業」もめっきり減り、組織で動く人が増えている。設備だけでなく、資本を人に投下して、人を組織化するのである。
「資本主義」体制の打破は、雇用関係を通じた人間の上下関係を拒否することにあり、貨幣経済や市場経済を壊すことではない。
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