猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

食べることが生きることから、ひとに優しくあるために生きる

2021-12-19 23:28:44 | 働くこと、生きるということ

私は戦後のベビーブームのときに生まれた一人である。

私の子ども時代は生きるのに大変であったが、生きるということは何かは簡単であった。

子ども時代に読んだマンガで一番記憶に残っているのは、子どもたちが先生の家に遊びに行ったら、ジャガイモを鍋一杯に茹でてくれて、お腹いっぱい食べると言う物語であった。確か、寺田ヒロオのマンガだと思う。子どもたちがお母さんに「タンパクを食べたい、タンパクを食べたい」と声をそろえるのもマンガによくでてきた。肉を食べるというの特別のことだった。

食べることが生きることであった。生きるということは何であるか、悩むことはなかった。

私の20歳のころは、世界的に若者の反乱があった。ベビーブーマから、「学園紛争」とか「全共闘」の世代に私はなった。田中拓道は『リベラルとは何か』(中公新書)のなかで、これを「文化的リベラル」と呼んでいる。

私は、田中がこれを「文化的リベラル」と呼ぶのに、当事者としては違和感がある。確かに、もっと食べたいよう、と騒ぐのよりも、文化的なのかもしれない。しかし、何のために生きるのか、ということに悩むことはなかった。大正時代のように、人生とは何かと悩むことは、周りを見渡しても、なかったのである。

当時の若者の反乱は、ただただ、あらゆる権威、権力から自由でありたかったからである。ピ-ター・フォンダが出てくる映画『イージ・ライダー』(1969)がその気持ちを表現している。

何のために生きるのかという悩みは、私の後の時代の若者の特権である。それこそ「文化的リベラル」と呼ぶのにふさわしいと思う。「ゆたかな社会」になったが、いっぽうで厳然たる貧困が存在し、それを問題視する党派もなくなっている。社会がゆたかになっているが、心ゆたかな者が孤立する時代になっている。

会社に務めていたとき、出社ができなくなった新人の指導を年配の私が頼まれたが、逆に、その新人の子に勧められたのが羽海野チカのマンガ『ハチミツとクローバー』である。自分の才能や生き方について迷う若者達の姿を描いた群像劇であり、新世代の息吹を感じた。

ところが、それは、ひきこもりがちだった作者の想像の産物であるとする解説を読んで、困惑した。

何のために生きるかに悩むことは素晴らしいが、人にやさしくあるために生きるというシンプルな答えで満足していいと私は思う。



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