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トーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』(筑摩書房)は、ヘブライ語聖書の『創世記』のアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの親子4代にわたる砂漠の民の物語を題材にとっている。『創世記』の11章から50章が該当する。
マンのほうが、面白くないのである。もとの『創世記』のほうが、乾いた語りで、含蓄があって、ずっと面白い。マンの『ヨセフとその兄弟』は駄作のように感じる。日本人の誰も読んでいないのではないか。
マンは、ゲルマン人の北方神話をもとに、そして、ときには現代ドイツ人の合理性で、砂漠の民の『創世記』を読んでいるのではないか。私にはそれに 徹頭徹尾 共感できない。
ヘブライ語聖書に対する批判的な読み方は20世紀初めのドイツの自由神学者によってなされた。このなかで、「モーセの五書」のなかで『創世記』がもっとも新しく創作された物語であるとされ、定説になっている。
マルティン・ノートは『モーセ五書伝承史』(日本基督教団出版局)の中で、アブラハム、イサク、ヤコブは中東の東方(シリア、ヨルダン、アラビア地域)の別々の族長で、その伝承を親子という形でつないだ創作との仮説を述べている。
考古学者の長谷川修一は、アブラハムやイサクの物語に出てくる「らくだ」は、想定される3600年前には、中東で家畜化されていなかった、ラクダの骨が発掘できないという。すなわち、物語の舞台は、3000年前より新しいのだ。
それにもかかわらず、『創世記』のほうが『ヨセフとその兄弟』より文学として面白いのである。
『創世記』には押しつけがましい「教え」というものはないからだ。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、これらは、族長の「守り神」である。
マンは、『ヨセフとその兄弟』の冒頭に「序曲 地獄めぐり」という章をおき、『創世記』の自己流の解釈を置いているのだが、中身は「地獄めぐり」のイメージにそぐわない。彼の述べていることは、現代からみれば、お笑いぐさである。アトランティス大陸の植民者に言及することで、東方に対する偏見がうかがえる。ゲルマン民族は文明の外にいた野蛮人であることを、マンは忘れている。
文明はメソポタミア、ナイル川、インダス川、黄河と長江に起こり、メソポタミアとナイル川の文明がギリシアに引き継がれた。ギリシアの文明は直接ドイツやフランスに引き継がれたのではなく、引き継いだのはイスラム国であった。
マンは第1部第7章に次のように書く。
《東方の世界では、ヨーロッパの人たちにとって自然な厳密な時間計算は、ほとんど未知のものである。東方では時間と生活とを西洋よりずっと無関心に曖昧ななりゆきにまかせていて、時間を測定したり数えたりする経済的発想はない。誰も自分の年齢を問われることなどはまったく予期していないので、そういうことを問う人は、相手が肩をすくめてごく無造作に、何十年もの相違のあるあやふやな返答をするものと覚悟していたほうがいい。》
メソポタミアでも、エジプト(ナイル川)でも、他の古代文明の地でも、農耕のために、精密な暦が使われていた。星の位置が観測され、時を知るために、使用されていたのである。さらに、精密な暦をつくるために、星占いをするためにも、地球や惑星が太陽周りを円運動しているのではないことが、メソポタミアやエジプトで知られていた。地動説のコペルニクスはそれを知らず、円運動を仮定したため、イスラム国から輸入された暦より不正確になった。
マンの誤りは、東方に対する偏見とともに、ヘブライ語聖書が書かれた背景への無知によると思う。
ユダヤ人がヘブライ語聖書をもつにいたった背景は、アレキサンダー大王の遠征によって、地中海・中東にグローバル化の波が押し寄せ、各民族は自分たちのアイデンティティを求め、古い歴史をもっていると創作する必要があった。その結果、『創世記』では、登場人物の寿命はやたらと長い。別にユダヤ人がバカだからではなく、一種の「愛国感情」からくる。
また、マンは、第2部第6章でヨセフを兄弟が隊商に売却すると書いているが、これは昔から議論のあるところである。『創世記』37章28節には次のようにある。
《ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。》新共同訳
同じく、37章36節に次のようにある。
《一方、メダンの人たち(ミディアン人)がエジプトへ売ったヨセフは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長であったポティファルのものとなった。》新共同訳
すなわち、ミディアン人とイシュマエル人は同じか、穴からヨセフを引き上げ売ったのは兄弟かミディアン人かの問題である。新共同訳はミディアン人とイシュマエル人が異なることを重視し、穴からヨセフを引き上げ売ったのはミディアン人とし、37章36節をミディアン人がイシュマエル人に売ったヨセフがエジプトの役人に渡ったとしている。
ところが、聖書協会共同訳は、穴からヨセフを引き上げ売ったのは兄弟である、と解釈できる訳にしている。
トーマス・マンは、穴から引き揚げたのはミディアン人とし、兄弟は引き揚げられたヨセフを自分たちの召使だと言い、お金をミディアン人から せしめたとした。
聖書協会共同訳もマンも、ミディアン人とイシュマエル人とは同じだとしている。しかし、『創世記』16章11節でイシュマエルをアブラハムとハガルの息子とし、25章2節で、ミディアンをアブラハムとケトラの息子としているから、子孫のミディアン人とイシュマエル人とは異なる。すなおに、ヘブライ語聖書を読めば、新共同訳の37章28節の解釈しかない。
いっぽう、37章36節は、新共同訳のように解釈するには無理で、ヘブライ語からは、ミディアン人がエジプトの役人にヨセフを売ったとするのが自然である。したがって、『創世記』の作者が勘違いしているか、異なる伝承をそのままつなぎ合わせたとするほうが、良いように思える。
トーマス・マンは『創世記』を現代ドイツ人の合理性でムリヤリ解釈しているように思える。
マンのなんでもかんでも説明したがるところが、『ヨセフとその兄弟』を面白くなくしている。日本やアメリカでは彼の本は売れないだろう。
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