猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

生きづらい人たちが悪い個人や集団の食いものにならないためには

2022-09-07 23:02:30 | 社会時評

きょうの朝日新聞の《耕論》は『「生きづらさ」言葉の功罪』という奇妙なタイトルであった。私自身も「生きづらさ」とは何を言いたいのか、もやっとしてわからない。

言葉とおり「生きることがつらい」であれば、これは大変なことだ。ほっと置くわけにはいかない。厚生労働省のサイトに行っても、自殺しないでください、すぐにも周りの人に相談しなさい、電話相談はXXXXX にかけて下さいとある。もしかしたら、心の病でなく、政治が悪くて職がない、食べていけない、寝場所がない、ことかもしれない。誰に相談して、どこに行けば公的支援が受けられるのかが、求められる。

しかし、この《耕論》の意図としているものは、そのことではないようにも見える。宗教団体から見れば「生きづらい」と思っている人たちはカモに見える。新たな信者になる可能性が高い。出版社や物書きからみてもカモだ。「生きづらさ」を対象に本がやたらと出ている。出版社や物書きによらず、「生きづらさ」を感じている人たちをビジネスの対象にしている者どもがいっぱいいるのである。

光武克、桜井千恵子、木戸理恵の3人が「生きづらさ」について自分の意見を述べているが、この《耕論》の企画の意図がわからず戸惑っているようである。

「発達障害者」らが集えるバーを開業した光武はつぎのように結論する。

<近年diversity(多様性)やinclusion(包摂)といった考え方が広がり、ささいな違いでも生きづらさを口にする人が増えていると感じます。誰しも生きづらいという認識が一般的になってしまうと、深刻な当事者にとって言葉のもつ重みが失われるしまわないかと心配しています。>

教育を社会問題としてとらえる桜井千恵子はつぎのように結論する。

<「生きづらさ」という言葉はもはや、自分も他人も自己責任に追い込んでしまう武器となっています。この言葉で」くくられてしまっている問題を本当の意味で解決するには、私たち一人ひとりが、その問題を個人の心構えの問題にすり替えてくるものを拒否することが必要です。>

貴戸理恵は光武、桜井と同じ危惧を抱えながら、つぎのように言う。

<でも、この言葉のよいところは、『自分で語る足掛かりになること』だと思っています。><しんどくなった時、「生きづらさ」という言葉によって他者とつながることができるかもしれない。>

3人の言うことに私は同意するが、本当に苦しいとき、どこに相談したらよいのか、どこに助けを求めたらいけないのか、のリストを朝日新聞として責任をもって掲げるべきだと思う。

生活の困窮で死にたいと思っている人がいっぱいいると思う。どこに行けば、公的支援を受けられるのか。弁護士会のどの相談窓口が信頼できるのかの情報が必要である。

統一教会が「生きづらい」人たちををカモにしているが、お寺の僧侶が一見善意でやっている集まりにもトンデモナイものがいっぱいある。少なくとも過去に問題を起こした団体に関しては、その事実をリストアップすべきである。

また、危ない団体か、信頼できない精神科医かを判定できる指標というものも、「生きづらい」人たちに必要だと思う。精神科医のレベルの差も激しい。

また、「生きづらさ」に関して誤解や偏見をもたらす本の批判も必要である。「生きづらい」人をますます苦しめるような本も困ったもである。



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