統一教会の教義では、韓国がアダム国で日本がエバ国であるという。これには正直驚いた。どうして、そんなことを人は信じるのだろう。洗脳の恐ろしさを感じる。
アダムとエバは旧約聖書(ヘブライ語聖書)の『創世記』から取られた語である。アダムはヘブライ語「אדם」からきているが、エバはラテン語訳からきており、ヘブライ語では「חוה(ハゥワー)」である。
アダムとエバというと、『創世記』の2章と3章のエデンの園の物語を思い浮かべるだろう。エバが、蛇にそそのかされて、エデンの園の「善悪を知る木の実」を食べるという物語である。しかし、どうして、そのことが、統一教会の教義では、エバがアダムに かしずかないといけないことになるのか、私には不可解である。
『創世記』では、神の命令にそむいて知恵がついたことで、神のペットであることをやめ、アダムとエバは自分で働いて生きることになるだけである。以前に、ブログ誤訳の聖書『エデンの園の「善悪を知る木の実」は誤訳』で書いたが、旧約聖書(ヘブライ語聖書)では、「善悪を知る木の実」を食べたことを罪としていない。子どもが自立して男と女になることを寓話にしただけである。
男と女になることで、子どもを授かり、生命の連鎖が永遠に続くことになる。永遠の生命を得たのである。
最近、この寓話を「アダムとエバの物語」と呼ぶのは適切でないかもしれない、と気づいた。
日本語聖書協会のサイトにはいると、聖書本文検索ができ、その単語が聖書のどこで使われているか知ることができる。「エバ」を検索すると聖書に2カ所しかなく、『創世記』の3章20節と4章1節である。これは、ヘブライ語聖書を「חוה」で検索してもこの2カ所である。
「アダム」で同じ検索をかけると、「新共同訳」の創世記では14カ所、最新の「聖書協会共同訳」では5カ所だけである。「聖書協会共同訳」では、しかも、「アダム」という語は「エデンの物語」の2章と3章とに出てこない。
これは、「聖書協会共同訳」では「האדם」を「ひと」と訳すことにしたからである。「ה」は定冠詞で、定冠詞がつくと普通名詞だと解釈するというヘブライ語の文法規則にもとづいている。
もう1つ、創世記2章の「女は男のあばら骨から作られた」というのが、単にそう訳しているだけで、本当の意味はよくわからないということを、最近知った。トーマス・レーマーは『100語でわかる旧約聖書』(白水社)の「アダムとエバ」の項目に、「あばら骨(צלע)」の訳は伝統的にそう訳しているだけで、根拠がないと書いている。「צלע」をあばら骨と訳しているのは『創世記』2章21節と22節の2カ所だけで、ヘブライ語聖書の他の39カ所では「対になった側面」という意味で使用している。「女は男のあばら骨から作られた」というのは、もしかしたら、偏見から生まれた誤訳かもしれない。
エバはアダムに尽くさないといけないというのは、聖書のどこにも根拠がない。男と女は1つになる「対」であるだけで、対等な関係である。1つになる「対」であることで、人は永遠の生命を得たのである。
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