新型コロナの緊急事態宣言のもと、なにかうっとうしい日々を送っている。政府があれやこれやと要請してくるが、いっこうにマスクがドラグストアの棚に届かない。
人ごみがどこどこの駅周辺で77.1パーセント減ったとか、メディアが小数点1桁まで報道するが、そんな値はどうしてわかるのか。何と比較してなのか。また、その値と「人との接触を8割減らす」と どう結びつくのか。「人との接触減らす」とは「人ごみを減らす」と相関があるかもしれないが、数値は結び付かない。「人との接触」は、たとえば 30分体面で話をすることである。
そもそも、「人との接触を8割減らしてください」自体があいまいな要請なのだ。童話によくある「どこだかわからない所にいって、なんだかわからない物をもってこい」という王様の命令と同じだ。あいまいだから、何をしても、王様は「だめだ」と言える。
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緊急事態宣言で、みんな、民主主義とはなにか、忘れてしまっているのではないか。
民主主義とは自由と平等である。誰にも命令されないことである。みんなが、自分自身で、自分の行動を選択することである。
「民主主義」のDemocracyとは、古代ギリシア語のδημοκρατία(デーモクラティア)から来て、群衆や下層民を意味する δῆμος(デーモス)を語源とする。
トマス・ホッブズは、『リヴァイアサン』で、「集まる意思のあるすべての者の合議体の場合は《民主政》」と呼ぶ。そして、「《民主政》が嫌いなときは、これを《無政府》(アナキー)〔統治の欠如の意〕」と呼ぶ、と書いている。
アナキー(Anarchy)は、ギリシア語で支配者がいないという意味で、モナキー(Monarchy)がひとりの支配者(独裁)を意味するのと、対をなす。アナキーは、政府を統治機構でなく、行政サービス機構とする立場である。
支配者がいないとは、みんなが自由で平等であることだ。平等とは、みんなが同じ服を着て同じものを食べることを意味しない。人はそれぞれ好みをもち、好きな服を着て、好きなものを食べてよい。平等とは、みんなが、思ったことを自由に言い、自由に政治に参加することである。
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緊急事態と言って、自由や平等を制限して良いのだろうか。「自粛」と言いながら「自粛警察」が動き回る。これは「ファシズム」ではないか。いまは、うっとうしいだけだが、そのうちに、新型コロナより恐ろしい怪物、人間の権利を否定する人間集団があらわれるのではないか。
安倍晋三をトップとする改憲集団は緊急事態条項を憲法に盛り込もうとしている。
改正案98条「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。」
改正案99条「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」
これは、民主政に代わって、モナキー(Monarchy)を日本に持ち込もうとしている。これは、上からのファシズムではないか。日本人は、新型コロナ騒ぎで騙されないと信じている。
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