岩波明は ADHD 治療の伝道師である。しかし、わたしには、この福音を素直に受け入れることができない。かれの「上から目線」が気になるからである。
かれは『発達障害』(文春新書)のなかで、英語ではdisorderとしている診断名を「障害」を訳す。「障害」の英語はdisabilityである。
かれは知的能力のある成人のASDやADHDを問題にする。かれは言う。
「彼ら(ASDの子供)は集団の中にいながら他を無視して奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったりする」
かれの成人患者も、「奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったり」しているのか。
わたしの住んでいる所に近くに、少し重い「知的能力障害」児を受け入れている施設があり、かれらと緑道でよく出会うが、「奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったり」するのを目にしたことはない。いっぽう、近くに多数の保育園があり、土砂降りでなければ、保育児は、ほぼ毎日、緑道を集団で、大声でキーキーギャーギャー言いながら、保育士と共に歩いている。
年齢と共に人の振る舞いは変わるのだ。
ちょっと大きくなれば、子どもは理由もなく「奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったり」しない。「奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったり」するときは、その子の悲鳴であり、怒りである。大人はその理由を聞いてあげるべきである。ASDの子どものイメージを変える必要がある。
さらに、岩波明は「ASDの当事者は、自分の思ったことや本当のことを言いたいという考えを抑えることができないことが多い」というが、「本当のことを言」うのは良いことではないか。目上の人に配慮すべきという社会通念のほうが間違っている。
岩波明は、症例や文学作品の登場人物の診断を本に記す。興味本位の読者には受けるかもしれないが、「発達障害」の問題をまじめに問う読者には不適切である。小説家は、先人の文学作品や自分の経験をつなぎ合わせて、登場人物のキャラクターを創る。すなわち、フィクションである。症例も、個人情報をあらわにしないため、いろいろな患者の症例を組み合わせたものであり、書き手の偏見あるいは創作がはいってくる。
ASDの症例で岩波明は「身体が弱くてよく熱を出し、また初めての場所に行くと不安定となり泣き叫ぶことがあった」と書くが、これは別にASDと関係ないことである。「偏食、癇癪がみられ、通学路を1本違えるだけで不安が強くなるなど、常同的な行動様式があった」も別にASDの診断基準でもない。DSM-5のどこにも そんな記述がない。
さらにADHDの症例では、仲の悪い妻の言い分を書きならべている。
「仕事上の人間関係で疑心暗鬼になりやすく、『俺のことを気持ち悪がっている』などと発言、自宅で思い出して不安定となる」。
「常同的な行動パターンがあり、毎朝の身支度の順番は一定、いつも米粒、消しゴムのかすなどを丸めている。必要ないものを、いつも持ち歩く」
「非常勤の教師をしていた私に攻撃的で、『妊娠もしていないのに、家でダラダラしやがって』などと責める」
「仕事が多忙だとイライラが高じ、突然すごい剣幕で怒りだす。怒ると、魔法瓶やカメラを床に叩きつける」
こんなことでADHDと診断されたくないと思う。「怒ると、魔法瓶やカメラを床に叩きつける」は、妻を傷つけないよう、怒りを物にぶつけているからだ。「仕事が多忙だとイライラ」するのは当りまえではないか。
わたしのNPOでの観察では、「発達障害」児とされている子どもは、記憶力、認知力、発語に問題を抱えている場合が多い。さらに、学校で先生にいじめられている子どもも多い。いまの社会は、勉強ができるかできないかで序列をつくり、その序列を乱すものをいじめるようになっている。
言葉が話せること、発語は、虐待の訴えに必要なので、私は、NPOで発語に力を入れている。
朝日新聞の記者にノンフィクション作家の鎌田慧が、学校で数学の答案を白紙で出して文句を言われなかったと語っていた。わたしも、年号を覚えさす日本史の教師に抗議して、毎回、白紙の答案を出していた。現在の学校教育にもっと異議を申し立てるべきだ。
とにかく、岩波明が成人患者にアトモキセチンやメチルフェニデートの投与する根拠が症例ではわからない。前者はノルアドレナリンの再取り込み阻害剤で、後者はドパーミンの再取り込み阻害剤である。再取り込み阻害で、少量のノルアドレナリン、ドパーミンで神経伝達がなめらかにいくという理屈であるが、薬理メカニズム上、依存性が避けられない。投与停止のときに、離脱症状が避けられない。薬の投与が本当に必要なのか。
岩波明は、本人の自覚がないまま、製薬会社の太鼓たたきになっているのでは、とわたしは危惧する。
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