岩波明は『発達障害』(文春新書)でADHD治療の福音を伝道する。かれの優れている点は、本人にADHDの人の特性を説明し、納得させて治療薬の服用を継続させることだ。そして、あなたがうまくいかないのは、すべて、ADHDのせいだ、という。
しかし、「整理や片付けができな」い「成人の女性例」を読むと
「当初は投薬の効果ははっきりしなかったが、十分量を継続することで感情的に安定し、以前よりも落ち着いて行動することができるようになった。」
「このような軽症例につては、病院での治療が必要なのか、意見が分かれるところであるが、最終的には本人の判断に任されるべきである。」
とある。納得させて治療薬の服用を継続させるが、服用することのリスクは自己責任であると言っていることに、注意してほしい。わたしは会社にいたから、これが「マッチポンプ」という営業手法と同質であると思う。
治療の福音は「再取り込み阻害剤」である。神経伝達物質(ノルアドレナリン、ドパーミン)は通常、それらを放出した神経細胞によって、再吸収されることで、効力は短い時間に限られる。阻害剤を使えば、近眼鏡や老眼鏡をかけたように、シナプスでつながった後神経細胞を刺激つづけ、伝達効率が上がる。これが治療薬の薬理である。
ADHD治療の福音は治療薬を飲み続けることを前提としている。治療薬は症状を抑えるだけで、治すわけではないから、治療薬をずっと飲み続けることになる。
「アルバイト先の会社のトラック2台のタイヤにハサミを刺してパンクさせた」Jさんの症例を読むと、問題の本質がわかる。
「衝動性に基づく粗暴な行動」で、「さらに小児期から不注意、集中力の障害がみられたことを考慮」し、「ADHDの治療薬を投薬したところ、衝動性や不機嫌さを改善し、就職した機械工場でも問題なく仕事を続けている。一時通院を継続することに不満も見せたが、自らの特性を理解し、服薬も続けている」とある。
「不注意、集中力の障害」とは、小学校の通知表にみられた次の記載である。
「時々、人の話を聞いていなくて注意されることがあります」(小1)、「教室での授業は、集中しきれないことがありました」「授業中、自分の世界に入り込んでいることが多い」(小3)、「特定の男の子とよく言い争っている」(小2)、「授業中、友達に手を出して遊ぶことが多く残念に思いました」(小3)、「女の子にちょっかいを出す」(小4)
このようなことは小学生の男の子によくみられることである。これらの行為は許すべきでないか否かは、もう少し情報がないとわからないが、他人に危害を加えるなら、すぐ、教師は止めるべきである。「特定の男の子とよく言い争」うや「友達に手を出」すは、両者の言い分を教師がよく聞く必要がある。
教師の適切な介入で子供の人格が成長するのだ。
ところで、中学生活では何の問題もみられなかったという。小学校の高学年の通知表にも岩波が引用するほどのことがなかったのだから、これは本当だろう。
ところが、高校にはいって、「2年次より急に成績が下がり、『学校に行きたくない』と言って家で荒れるようになった。このため、母が毎日車で学校まで送ることを繰り返しようやく卒業できたが、担任の教師に不満をいだき、無言電話を繰り返した」とある。
「急に成績が下が」るのは、心に大きな葛藤をかかえたからであり、両親はその理由を聞かないといけない。成績が下がるから学校に行きたくないのではなく、学校に属する人間たち、教師やクラスメートが Jさんに嫌なことをするからである。それなのに、「母が毎日車で学校まで送ることを繰り返」すとは、Jさんをさらに追い込むことになる。
わたしが Jさんだったら、「荒れる」のではなく、両親を殴り、学校の窓ガラスを割り、社会問題化させるだろう。Jさんは臆病だから単に「無言電話を繰り返した」だけで済んだのだ。
Jさんのケースは、小児期のADHDが続いていると考えるよりも、「重篤気分調整症(Disruptive Mood Dysregulation Disorder)」や「秩序破壊的・衝動制御・素行症群(Disruptive, Impulse-Control, and Conduct Disorders)」と考えるのが普通だろう。生まれつきの「発達障害」の枠で考えるべきでない。
このケースのもう一つの意味することは、ADHDの治療薬は、ADHDでなくとも衝動性を抑えるのに効くということであろう。ADHDは本人を説得するための方便であり、継続的服用で衝動性を抑えることが本質である。そして、怖いのは、政府に反抗すると、ノルアドレナリン再取り込み阻害剤を飲ませられ、温和な人間に改造されることである。
わたしはADHD治療薬の福音が信じられない。
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