猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

私の子ども時代の授業は、にぎやかで楽しかった

2019-05-05 21:55:31 | 思い出
 
わたしの子ども時代、小学校の授業は、にぎやかで楽しかった。授業中、手をあげて自由に発言できた。色々なできごとを断片的だが覚えている。
 
小学4年生の時、標語を作る課題で、かわいい女の子が手を挙げて「マッチ 1本、お山のてっぺん、まる坊主」と言った。みんながどっと笑った。
 
先生の質問「1から10までの和はいくつですか」に、わが家の向かいの着物屋の息子が、さっと手を挙げて答えた。「55です。1と10とを足して5を掛ければよい」と言った。
わたしも算数が得意だと思っていたが、これは思いつかなかった。悔しくて悔しくて、その後、2年をかけて、「1×1+2×2+3×3+…+10×10」の計算公式を考え出した。今から思えば、中学程度の文字式を使うことを知っていれば、もう少し早く発見できただろう。
 
先生の質問「惑星と恒星とはどうしたら区別できますか」には、みんなが手を挙げて、自信満々に色々な自説をのべた
誰かが「まばたくのが恒星で、まばたかないのが惑星」と言った。今でも、誤っているとも、もしかしたら、正解かもしれない、とも思ってしまう。
というのは、星がまばたくのは上空の空気の揺らぎのためで、惑星は恒星より近く、大きく見えるから、もしかしたら、土星や金星は、まばたかないかもしれない。
 
とにかく、子どもたちから飛び出す自由な発想に、先生はとまどっただろう。
 
現在、文部科学省は「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」を提唱する。しかし、自由に子どもに意見を述べさすには、教育にゆとりがないとできない。子どもたちが、どんなことを言い出すか、予測できないからだ。文部科学省が教えなければならないとするものの量を減らさないと、教師の自由裁量の幅を広げないと、現実的には「主体的・対話的で深い学び」を教室に持ちこめない。さもないと、残るのは教科の消化不良だけである。
 
また、「主体的・対話的で深い学び」では教師が子どもの意見を正しいのか、間違っているのか、どこかおかしいのか、とっさに判断できないといけない。
しかし、理科ではこれがむずかしい。理科の教科書やNHKの教育番組でさえ、間違いが、やたらとある。教育のプロでさえ、間違うのだ。
 
正しいのか、誤りなのか、わからないときは、教師は「わからないから調べてきます」と正直に言うべきである。調べてもわからないなら、どうやったら、正しいか誤りかを判断できるのか、教師自身の意見を言って、答えはわからないままに、子ども自身の課題に、残すのが良いと思う。科学では、たびたび学説がひっくり返される。
 
中学の理科の教科書を読むと、実験の前に結果を「予想してみよう」という言葉がある。教科書を先に読んできた子や、塾で話を聞いた子が、知識として実験の結果を知っていて、自慢げに話すかもしれない。
そんなとき、教科書の作成者は、教師にどんな対応を期待しているのだろうか。
実験は、結果が予測できないときに、楽しいのではないだろうか。


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