この連休中、テレビで、宮中祭祀の行事を「日本の伝統はいいものですね」と、若いアイドルがコメントしていた。
「日本の伝統」とはなんだろう、「伝統」ということに価値があるのだろうか、と私は戸惑ってしまう。
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「昔ながらの洋食屋」と言われたら、私は、「まずい味」のレストランを思い浮かべてしまう。生活習慣も昔と変わり、使える素材も増えたのだから、味も進化しないとおかしい。
私は北陸の金沢に生まれ育った。子供のときに、「のれんは三代と続かない」という話を何度も聞かされた。「老舗(しにせ)のお店屋さん」といっても、ほとんどが、「のれん」を買って、経営者が変わっている、と教えられた。
創業しても、代が下るに、バカ息子になって、のれんを維持できなくなるという話である。「伝統」だけでメシが食えないという話である。創意工夫の努力が常にいるとの話である。
私の同級生に和菓子屋さんの長男がいて、いつも、朝遅く、お手伝いさんに連れられて来た。5年前に故郷に帰ったら、その子の店の「のれん」も買い取れ、まったくの赤の他人が経営者になっていた。ニセ「のれん」の和菓子屋が繁盛していた。
「のれん」では続かない。「伝統」は破られるためにある。さもないと、「伝統」とは「劣化」のことである。庶民の世界は、かように健全なのだ。
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約3年前の8月8日、前天皇の明仁が、ビデオメッセージで「伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し」と語った。NHKテレビを経由して全国に流れた。
「これを守り」の「これ」は、「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方」のことである。「これ」と「伝統の継承者」とに、なんの関係があるのか。
更に、「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」という言葉が続く。
そして、この後、「象徴的行為」として「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」という言葉が出てくる。
このビデオメッセージの全文は、宮内庁のサイト www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12に掲げられており、誰でもいつでも読むことができる。
日本国憲法のどこにも、「天皇」が「伝統の継承者」であるとは書いてない。とても不可解なビデオメッセージだ。にもかからず、これが全国に流されたことがきっかけになって、天皇の退位が実現した。
このメッセージの「祈る」という行為が「こころのなかで願う」ことなら、「個人的な行為」と受け止めることができるが、現実には、夜な夜な宮中祭祀を行っていたのであり、「個人の信条の自由」の範囲を超えている。
日本国の安泰、皇室の繁栄を祈るのは、明治以前は、仏教の僧侶の仕事であった。それが「伝統」であった。だから、京都や奈良にたくさんの寺院がある。
今から、120年前、明治にはいり、政府は「神仏分離令」を発し、祈りを神道の仕事とした。怒涛のような欧米からの文化の流入に対抗し、政府は、国民統合の象徴として「天皇が生き神様」の伝統を新たに作った。「国=天皇=神」の虚構である。神道と天皇との結びつきは、この時に作られたものである。
昭和の敗戦は、これを否定した。昭和天皇の「人間宣言」であり、憲法の「政教分離」条項である。
ところが、この平成の30年間に、平成天皇自身によって、国民統合の象徴としての天皇を「国民の祭司」すなわち「神主さんのトップ」のイメージに改ざんした。「天皇=祭司」は平成の虚構である。これは、憲法の「政教分離」に違反する。怪しげな「祈り」は私にとって迷惑だ。伝統でもなんでもない。
「象徴天皇」とは、憲法の矛盾に満ちたキズであり、平成天皇は、これを利用して、皇室の安泰を謀ってきた。すなわち、「伝統」を守るふりをしながら、創意工夫をして「伝統」を改ざんしてきた。
さあ、さあ、新天皇、令和天皇は、どうする。平成天皇の改ざんを受け継ぐのか。
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