きょうは金曜日、1週間の疲れがでて、老いた私の脳が働かない。
中国政府は、香港の「民主派」を中国の法でもって裁き、自国を法治国家という。
「法治国家」という定義には曖昧性があるようだ。文字で禁止事項とそれに違反した場合の刑罰が書かれていれば、「法治国家」というなら、人民にとって「法」は敵対するものになる。
「法治国家」は「恣意的な支配」を排除するためのものである。しかし、「支配」そのものの実態を問題にしないといけない。古代中国の統一国家、秦は、「恣意性のない一律」の支配を全国的に行政の末端まで貫徹させるため、「法」による支配を行った。そのために、秦は文字の統一と簡略化を行った。漢字の「隷書体」は、秦が「法治」のために作った書体である。
菅義偉は、韓国で行われた元慰安婦による日本政府への賠償金訴訟の判決は、国際法に違反するという。他国が主権国家を裁くのは、国際法に違反するという。国際法とは何かがわからない。国際法とは国と国との条約のことではないか。それが、人民が他国の政府を訴えることを禁じることができるのだろうか。近代の世界史が教えることは、国際法とは支配的国家がかってに作ったルールにすぎない。「法」は末端を縛るが、トップは「法」に縛られない。
私は外資系にいたので、輸出入を担当する同僚から、日本や中国の税関は恣意的な取り扱いをすると不満をよくぶつけられた。日本には、政令とか省令とかがあって、詳細を政令や省令で決めると、法律に書かれていることが多く、政府が詳細を恣意的に決めることができる。政令や省令が出されていればまだよくて、末端の役人の気持ちしだいになることもある。日本は「法治国家」でさえない。
しかし、米国(USA)もほめたものではない。米国は、自国の法律が他国でのビジネスにも通用するという信念を持っている。外資系にいると、米国の法律を守って日本でビジネスしないと、米国の本社が罰される。
「法」というものは、みんながそれを妥当なものと思っていて、社会体制がその法と整合性がとれているのではないと、信頼されない。
きのう、米国時間で1月6日、トランプ支持者のデモ隊が米国の国会議事堂に突入した。突入した4人が警備隊に撃たれて、殺されたという。1960年、日本でも、デモ隊が国会議事堂の前庭に突入し、一人が殺された。突入したデモ隊の一人ひとりにも言い分があるはずだ。トランプ支持者が「自由を回復した」と叫ぶ姿がテレビで流れている。
フランスでもイギリスでも、新型コロナ感染症対策のロックダウンに抗議する実力行使が起きている。
「法治」と言っても意味がない。
民主制が機能するためには、前例が何だとか、法が何だとか、そんなことを言っていてもだめで、社会の制度が自分たち みんなのためにあるという信頼を得なければいけないのだ。
きょうは、私の脳が疲れていて、機能しない。
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