市川裕の『ユダヤ人とユダヤ教』は、異なった価値観の世界を体系的に見せることで、私たちの社会を根底から考え直す機会を与える。
ユダヤ系の学者によっては「ユダヤ教は宗教でない」と本に書いているという。
キリスト教を基盤とした現代の欧米社会では、「宗教」は「世俗社会」から切り離された精神世界を律するもので、「信仰対象としての唯一神、世界観を含めた教義体系、礼拝行為を定めた儀礼体系、明確な信徒集団などの諸要素を備えたもの」を指しているという。
ユダヤ教やイスラム教では「啓示法」をもち、「宗教」と「世俗社会」と分離できない。「啓示法」とは、理念上は、人間が定めてた「法」でなく、超越的権威の「神」が与えた「法」のことである。じっさいには、権威をもつ法学者が「啓示法」を解釈して、「世俗社会」を律するという。
これは、「法」を社会の成員である人間たちが立案し施行するという、近代の民主制社会と合わない。
市川は、「ユダヤ教」を、エレサレム神殿がローマ軍に破壊されるなかで、ギリシア哲学に対抗することで成立したものとする。
ここでのキリスト教的「宗教」か否かは、「世俗社会」での生活を律するか否かにある。たぶん、キリスト教がローマ帝国の国教になったことで、世俗的権威の皇帝と宗教的権威の教会との両立をはかることで、「宗教」と「世俗」との分離がなされたのであろう。
じつは、私は別の見方から「宗教」をみている。市川は「宗教共同体」という言葉を、ユダヤ世界やイスラム世界に当てはめているが、「宗教」が成立する要因に「共同体」の維持あるいは構築の願望があるのではないか、と思う。キリスト教の教会も、同じ役割を果たしてきたのではないか、と思う。「唯一神」であるかどうかは重要な問題でない。教義も礼拝儀礼も後からついてきたものだろう。
日本での「新宗教」(新興宗教)について書かれた本を読むと、困窮に陥って入信した人たちが、そこから抜け出れないとある。それは、超越的権威に頼ろうとして入信したが、そこに同じような困窮に陥っている人たちとの共同体を見いだし、孤立を感じなくて済むからではないか、と思う。入信した人は帰属先をもち、孤独でなくなるのだ。
オウム真理教もそういう「新宗教」の1つである。「世俗」の学歴に劣等感を感ずることなく、権威をもった幹部を除き、みんなが平等であるという世界が実現される。
「共同体」の問題は、1つは、「共同体」の外に対して、被害者意識から、攻撃的になりがちである。1つは、本当の平等ではなく、内部に権威をもつもの、持たないものの上下関係が生じやすい。このような問題は、「新宗教」だけでなく、キリスト教の教会でも、生じる。
「信仰」は、個人の判断を排除し、権威に判断を預けがちになる。ということは、「信仰」を核とする「宗教」が個人にとって居心地がよくても、人間社会の問題を解決するのはどだい無理ではないかと私は思う。
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