宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)の第4章は、何を言いたいのか、よくわからない。メッセージがあるとすれば、現在、デモクラシーの何かが挑戦を受けているということかもしれない。
第4章3節に、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』が紹介されているが、まだ目が悪くなっていない数年前に私が読んだとき、とてもわかりにくい本だと思った。ヨーロッパ社会がユダヤ人をいかに迫害してきたが延々と書かれている。私は、国民国家というもの、排外主義というものを非難したいのかと思った。
宇野は別の読み方をしている。19世紀から20世紀に民主政が大衆化されていく。多くの人が政治に参加できる体制ができるようになる。ところが、自分がその参加を拒否されていると感じる人々が出てくる。それが「モッブ(mob)」であると言う。
オックスフォード英英辞書を引くと、mobはつぎのように書かれている。
《disorderly crowd, rabble, especially one that has gathered for mischief or attack》
宇野はつぎのように書く。
《アーレントが意図したのは、「モッブ」の人びとを批判することではありません。むしろ、19世紀のヨーロッパの階級社会が、「取り残された」、「見捨てられた」人々を生み出したこと、それ自体を強調するのが彼女の意図でした。そして伝統的な階級社会が解体した20世紀において、そのような人々が大量に出現するようになります。》
《このように、19世紀末から20世紀にかけて、社会からも国民国家からも排除された人々が大量に出現したこと、そして議会制民衆主義はそのような人々の救いとなるどころか、むしろ憎しみの対象になったことをアーレントは重視したのです。》
さすが、宇野は深く読んでいると感心するとともに、では、どうすればよいと、アーレントは考えたのか、あるいは、宇野はどう考えるのか、が示されていないことに不満を感じる。
全体主義とまでは言えないが、「トランピズム」や「在特会」のように、「取り残された」、「見捨てられた」人々の叫びが、現在もある。どうやって、彼らを見捨てず、デモクラシーの根本理念「参加と平等」を実現するのか、じつは、暗中模索なのかもしれない。
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