きょう、森本あんりの『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書)を図書館からようやく借りだせた。予約してから約半年後である。彼の『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)と同じく、いろいろな事例の集まりから、「寛容」とは何かを主張する。それが彼の本の魅力である。
事例に基づくから、彼と別の結論に達するかもしれない。私はこれまで、多くの点で、彼と異なる結論に到達してきた。彼は日本の恵まれた階級に属する知識人である。私はそうではなく、異なる結論に至るのも当然であろう。
宇野重記はリベラル(liberal)が「寛容な」という意味のフランス語であるという。これにたいし、森本あんりの「寛容」はフランス語のトレラース(tolerance)である。
リベラルが「自由や多様性を認める」ところに力点があるが、トレラースは「我慢する」ところに力点がある。
したがって、森本は、プロローグの中で「寛容」について、つぎの問題を提起している。
《自分が反対している意見を聞かされ続ける毎日が本当に訪れたら、やはり最後には我慢ができなくなってしまうのではないだろうか。》
私の妻が、引きこもった息子の愚痴を聞かされ続け、ある日、脳が異常を起こし、たぶん海馬だと思うが、とにかく、異常な状態になり、奇声を発して、記憶を失った。「今日は何曜日」「私は何をしていたの」と同じ言葉ばかり発した日が2、3日続いた。
我慢には限界がある。
トレランス(torelance)は、技術者の間では、工業製品の「許される範囲」を意味する。部品と部品とかみあうには、寸法の誤差がトレランス内に収まらないといけない。コンピュータとサブシステムが信号をやりとりをするとき、時間の刻みの誤差がトレランス内に収まらないとエラーを起こす。
部品が集まって1つの製品を形作るために、サブシステムが集まって1つのシステムをつくるために、必要なのが「寛容」である。この場合の「寛容」は対等なのである。
私は、「寛容」とは自分の立場を絶対視しており、必要だとしても、「寛容」でしか維持できない社会はもろいと思う。「対話」が成立するには、自分の意見に対して変更する可能性がなければならない。
福島第1原発でトリチウム汚染水の海洋放出について、地元民と政府の対話を新聞が唱えているが、結論ありきで、「対話」が成立するあるはずがない。私はこのようなとき、地元民は国会に突入をして、ムシロ旗を国会に立ててよいと思う。あるいは、トリチウム汚染水を東京の水源にばらまいても良いと思う。
「寛容」とは上から目線のものの考え方で、そもそも、おかしい。
半日で本書の半ばまで読んだが、17世紀のロジャー・ウイリアムズとジョン・コットンとの戦いを中心テーマとしている。アメリカの独立前のことである。ウイリアムズがニューイングランドの教会(会衆派)を批判することを社会秩序を乱すとして、コットンがウイリアムズの追放を支持する。森本は、現代から見ればウィリアムズが正しいが、当時の英国と植民地イングランドの関係を考えれば、コットンのとった態度は正当であると言う。
森本は常識人だから、国際基督教大学の副学長になれたのであろう。
現代からみれば、ウイリアムズもコットンも神との関係に縛られているオカシナ人にすぎない。教会なんてなくてよい。キリスト教は貧乏人が集団として自己を主張した運動であった。それを忘れてイエスを神格化した現代のキリスト教はいらない。
ウィリアムズやコットンの17世紀で考えれば、ウィリアムズを追放する必然性はどこにもない。ウィリアムズが怒るのは当然である。コットンはクソである。
宇野重規は森本あんりに同情的な書評を寄せている。
《これに対して、本書では、不寛容な側にもそれなりに理由があるのではないか、というところから出発する。人や集団がつねに他者に対して不寛容なわけではない。不寛容さが前面に出てくる場合には、それなりの理由があることが多い。まずはそれを理解してみよう、というのが著者のスタンスである。》
島薗進は、書評で、森本あんりがウィリアムズに近代の精神を読み解いている、と言う。
《良⼼を⽀える固有の信念は譲らない。それ故にこそ、異なる他の⽣き⽅を許容する⾃由だ。現代社会で⽬⽴つ新たな不寛容に対峙する、信仰に基づく寛容思想の提⽰でもある。》
本書のどこから、島薗がこのような結論をえたのか、私には理解できない。「寛容」は社会のその場しのぎの潤滑油だが、問題をそのまま維持するだけで、社会を変革できない。
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