猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

『(耕論)再考、共学と別学』で言及されない本当の問題

2021-07-02 22:50:03 | 教育を考える

2,3日前、朝日新聞に『(耕論)再考、共学と別学』があった。読んでも何かピンとこない。考えてみるに、私は、小学校、中学校、高校と男女共学であった。大学も教養課程では、1割から2割が女性であった。専門課程では、物理学科は30人の定員で2人が女性であった。そのうちの一人は同じ高校出身であった。数学科はもっと女性の割合が多かったように覚えている。

学校は一義的には勉強するところである。共学か別学かの問題が生じるとは思ってもいなかった。男女を区別する必要がない。共学が当たり前である。

したがって、問題はそこにないだろうと思う。

問題は、共学の中で、(1)男女の文化的社会的違いをどう扱うか、(2)男女の生物的性の違いをどう扱うか、(3)性交などの性的行為をどう扱うか、である。

(1)の男女の文化的社会的違いは、国や地域や個人の生活レベルで異なる。すなわち、必然ではない。単なる思い込みである。男女平等をもとに判断し、そういう違いを無視していいと思う。

(2)と(3)の問題に関しては、朝日新聞の論者は3人とも言及していなかった。

服装の問題は本当は(1)に属する。ブルマーの問題は、髪の毛の長さと同じく(1)に属する。学生時代の私も、明治生まれの下宿のおばあさんに、髪の毛が長いと男か女かわからないと言われた。外見で、男か女か判断できないと何が困るのだろうか、私はわからない。

男女のトイレの問題となると微妙な問題となる。共学でも、男女のトイレが分けられている。それが社会的合意のように見える。ところが、集合住宅では、世帯ごとにトイレが別だか、それぞれの世帯では男女によるトイレの別がない。おおやけの場所のトイレに男女の別があるのは、いっしょにすると、男が女を襲うという思い込みが社会的に共有されていることになる。

上は(3)の問題である。原則は、暴力をもって他人に嫌がることを強制してはいけないということである。これが守られていれば、本当は学校のトイレに男女別がある必要がない。

(2)と(3)の問題に言及がないということは、学校での性教育の位置づけがあいまいなことと符号する。

生物的なちがいについては、男女の別なく、学校でオープンにいっしょに教えていいのではないか、と思う。

私は下町の公立中学校にいたが、休み時間には教室で悪ガキが男役と女役に分かれて性交の真似をしていた。私自身も授業中にオナニーをしていた。女の子は男の子が白い精液をだすことを知っていた。

私の高校は上品な進学校だったから、そういう露骨なことをおおやけにすることはなかった。しかし、男どもだけが集まると、安心してか、「したい、したい」と言い出すものが必ずいた。下品な中学校と違い、性衝動が隠されただけである。よく言えば淫靡な世界に移っただけである。

生物的なちがいを学校で教えることに問題はなく、やってみれば簡単なことだと思う。不必要な心配である。友達の多い子どもは みんな聞いていることだし、友達から聞いた間違った知識は教育の場で訂正されるべきである。

(2)の注意点は、競争を学校に導入していることである。具体的には生理の扱いの問題がある。原則は簡単で、男女の差を個性の差と見なし、自分のペースで勉学することを学校側が認めることである。競争をさせないことである。

(3)の問題は性行為に快楽が伴うこと、恋愛には性衝動が伴うことである。中学生のとき、ほとんどの男の子は自慰を覚える。社会的立場からは、人の嫌がることをしない、が原則である。いっぽう、性衝動や性行為の快楽を肯定しないといけない。

私は、ここに困難さを感じる。社会の合意はどうなっているのか、わからない。この問題を大人同士でもなかなか話せない。下手に話せばセクシャルハラスメントに受け取られる危険がある。みんな、性行為に快楽が伴うことを知っていて、それを隠しているように見える。

しかし、この問題をオープンに大人が話しあって、教育の場でどうするかの合意をとらないと、子どもの間に大きな性知識の格差が生じるし、いっぽうで望まぬ妊娠、いっぽうで出生の減少という社会問題を生む。

そのように思いながら、私自身は、実際には、この問題に関して日和見主義である。勇気がないから、本当の意見が言えないのである。

[補遺]

共学か別学かを書いているうちに、小学校4年生のとき大騒ぎを起こしたことを思い出した。私は乱暴者が嫌いで小さいときから女の子と遊んでいた。

4年生のときは、目が大きく唇が厚い女の子が好きで、毎日曜日、一緒に遊びに出かけた。あるとき、いっしょに担任の先生の家に遊びに出かけた。先生は歓迎してくれ、親の生業、珪藻土から七輪をつくる現場を見せてくれた。また、自分の所で売っているラムネをごちそうしてくれた。

その日の夜、先生の宅でその女の子と一緒にお風呂に入ったと私が言って、大騒ぎになった。なぜか、本当に入った気がしたのだが、本当に起きたことでもないような気もする。子どもは事実と想像と区別できないところがある。しかし、こんなことで大人が大騒ぎをするとは子どもの私は思わなかった。



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