今日の朝日新聞〈オピニオン&フォーラム〉に大阪市の小学校校長のインタビュー『「平凡な校長」の直訴』がのっていた。今年の5月17日、大阪市長の松井一郎に提言をだし、教育委員会から訓告処分を受けた久保敬のインタビュー記事である。
なぜ、現役校長が松井の教育行政を批判したら、訓告処分を受けるのかわからない。部下から提言を受けたら、それに答えるのが長の責務でないか、と思う。
いまから、40年前、帰国して、30歳を過ぎてから、日本IBMの研究所に、中途入社した。1980年代は、ジャパン・イズ・ナンバー・ワンとか言って、日本人が根拠もなく威張り始めたころだ。三井信雄副社長が、新しくできた組織を視察に来て、スピーチをし、質問があるか、と集めた社員を前にして言った。誰も手を上げないので、可哀そうに思い、私が手を挙げて質問をした。そうしたら、突然、怒りだし、「犬の遠吠え」と入社したばかりの私をなじりだした。
三井信雄は「糞(くそ)」である。人間は対等である。質問はあるかというから、優しい気持ちで、質問したのである。欧米では、質問を求めた人は、質問に誠意をもって答えるのが普通である。入社してから、アメリカの本社から色々なトップの人びとが来たが、みんな、私のつたない英語の質問に笑って答えてくれた。会社の組織上では上下があろうとも、人間として、技術者として、研究者として、対等である。
三井信雄は糞である。しかし、日本のトップは、三井信雄のように質問や提言に答えないところがある。そんなことをしているから、組織が退廃して腐ってしまう。あにはからんや、1990年に日本のバブルがはじけ、経営の失敗を日本の技術者にしわせよせし、2000年代には、日本の技術水準は、韓国、台湾、中国の後を行くようになった。日本のトップは人の言うことを聞けない。
日本の経営者も行政の長も政治家も糞である。自由な発想は、率直で対等な対話から生まれる。質問や提言に答えなければならない。
松井一郎は糞である。日本維新の会は糞である。
久保の提言は、公教育(義務教育)はなんであるべきかである。いまの公教育は、あれやこれやの何でもを子どもたちに求め、そんなに多くのことを、子どもたちがこなせるのか、ということが考えられていない。そして、その無理な注文は教師にも大きな負担をかけている。
私は教師の免許制や検定教科書にも反対である。何を教えるか、を丁寧に議論していかなければならない。それがわかるのは教育の現場を担当している教師である。教師の意見を聞かずにどうして、誰が教育者の資格を認定し、教科内容を決めることができるのだろうか。
提言のなかで久保はつぎのように述べる。
《学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。》
私は、「学力」に劣等感をもった経営者や政治家が、子どもに無理な要求をしているだけだ、と思う。こんな教育で「グローバル経済を支える人材」になると思えない。それに、権力のおべっかをしている大学の先生たちが審議会で権威付けをしているだけと思う。新型コロナ感染対策専門家会議のように、政治家にNOをいうべきである。
久保は提言でつぎのように言う。
文科省は《グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言う。》
しかし、《 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。》
何を学ぶのか、何を教えるのか、の議論を抜きに、学力テストをして、子どもたちを競争させ、教師を学校間で競わせ、意味のない疲れと無気力に引き落とす。「グローバルな人材」をつくっているのではなく、助け合わず、権力に従順な、創造性のない大人をつくっているだけだ。
数日前、テレビで、たまたま、放送大学の教育心理学でパソコンのソフトを使っての、理科教育の成功例を紹介していた。いろいろな角度から浮力について質問するから、深く学習できるのだと言う。
そんなことはウソだ。科学は自分の目で観察し、手作りで何かをつくり、何かを発見することだ。教育者は子どもの好奇心を刺激し、見守り、自由な発想を壊さない範囲で、質問に答えたり、行き詰まりから抜けるよう手助けしたりする。決して、枠に当てはめない。私は物理を専攻したが、大学の物理実験は少しも面白くなかった。時間内に決められた結論に行き着くように設計されていたからである。教育とは、予測不可能の、不確実性のなかの可能性を秘めているべきである。
競争と上からのコントロールは、教育にあってはならない。
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