古新聞を整理していたら、2月から3月にかけて朝日新聞が『早期教育ギモン』というシリーズを連載していた。私は、これを1月末の特集『教育虐待をなくすには』を受けたものと思う。早期教育が教育虐待になりがちだから問題で、それが虐待にならなければ、早期教育の機会を子どもに与えたってどうってことはない。
私がNPOで担当している23歳の子どもは、人との付き合い方に問題があって、友達もできないし、就職もできていなかった。ようやくこの4月から知的障碍者の枠で水耕栽培の職にたどりついて、ホッとしている。
しかし、彼には小さいときから母親に教えられたピアノがあり、心の支えになっている。清塚信也と違って、ピアノが職業にならなかったが、心の支えになったのだから、それで良かったと思う。
私はNPOで知的な遅れのある子たちも担当してきたが、遅れが軽くても重くても、親がそれを受け容れていれば、それなりに親子は穏やかに生きていける。昔より、社会の支援が整ってきている。
早期教育は、ビジネスとして行うときには、その質を問題にすべきである。虐待であってはならない。怪しげなビジネスが横行するのは、親が教育というものを誤解しているために、詐欺にひっかかるのだと思う。メディアは、怪しげな教育ビジネスを具体的に指摘して、警告を発していかないといけない。
親が詐欺にひっかかるのは、教育を貧困から脱出する手段と思っているからだ。早期に教育を受けさせないと競争に負けてしまうと思っているからだ。
虐待を受けるのかもしれないのに、親は子どもを保育園や幼稚園に入れる。公文式ドリルを子どもに強要したり、四谷大塚や日能研に子どもを押し込んだりする。親はその金を工面するため非正規雇用者としてスーパーやコンビニで働く。
私はドリルが悪いと言わない。ドリルはその子が言語を操るのに何が足りないのか探るに使える。この子は「どうして」とか「どのように」とかいう人からの問いの意味がわからないとか、人の気持ちの推察がつかないとか、コミュニケーション能力の弱点がわかる。そこをフォローするのが教育である。
教育は人に勝つためでない。健全な心や脳を育てるのが教育である。
子どもに特に知的遅れがなければ、子どもが小さいとき、親が教育に熱心であれば、確かにそうでない子どもよりできるようになる。しかし、本当に能力が子どもにあるかどうかは、わからない。親の助けでそう見えるだけかもしれない。子どもには親を超えて賢くなって欲しいと思うのは悪くないが、賢いということは何かをも考えてほしい。自分で考える力を育てないといけない。
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