家父長制社会、父権的社会が日本に本当にあったのか、私にはわからないし、あったとしても、実感がわかない。しかし、暴力をふるう父親がいたのは事実のようだ。「女性の権利」で、いっぽう的にタリバンの悪口を言えないようだ。
昔、私の妻のもっている向田邦子のエッセイ集を読んだとき、こんなバカな父親がいるなんて信じられなかった。しかし、向田のエッセイがいまも読まれていて共感されているというのは、向田の父親のような男がそんなに少数派でないのかもしれない。
私は家父長制とか父権とかいうのは、暴力集団である武士階級の末裔が、もたらしものと思っている。日本の人口全体から考えると、暴力しか能がないサムライなんて、ごく少数のはずであるはずだ。働かないで、働く人から物を奪って暮らすヤカラは、少数でなければ、社会がなりたたない。
ところが、向田の父をサムライの末裔だと思っていたのに、ネットで調べたかぎりでは、その証拠がでてこない。父親は、明治生まれで、高等小学校(2年制)しかでていず、保険会社の給仕として務め、幹部社員まで登りつめた「叩き上げの人」であるしか、わからない。
もっとも、私の祖父は高等小学校をでていない。尋常小学校(6年制)を卒業したかも怪しい。歩いて東京に行き、家具修繕の見習いの仕事にありついた。私の母の父は、尋常小学校にも行っていない。親が修験者(山伏)で、全国の山を連れられてさまよっていた。私の母は高等小学校卒であることを私に自慢していたから、庶民からみれば、高等小学校卒は教養人ということになる。
向田邦子の父の話に戻ると、彼は、もしかしたら、下層武士の末裔だったかもしれないし、そうでないかもしれない。乱暴な男になったのは、保険会社に務めたからかもしれない。日本の会社は、権威主義的なサムライ文化を引き継いでいる。合理性がなく、死ねといいたくなるところだ。日本の社会にこのようなものがあるのは、サムライによる暴力革命、明治維新のせいであると思っている。明治にすべての悪がはじまったと私は思っている。
1週間前の朝日新聞の読書欄に、西谷正弘の『中世は核家族だったのか』が紹介されていた。実証的な研究によって、中世の庶民は、家を中心とした生活を送っていず、夫婦を単位として暮らしていたことが、わかったという。
《きっかけは、古代末期疫病や自然災害の多発だった。崩壊した共同体から放り出された民衆は、夫婦間の結合を分業で強めて危機を乗り切る。》
私有財産もなく働くしかない庶民の間では、家父長制や男性社会的な生き方は無理である。明治になるまで、庶民は名字をもっていなかった。どこに住んでいる、あるいは、どんな商売をしている、だれだれ(熊八とかツル)で充分であった。明治に戸籍ができ、名字をもち、家父長制度ができた。
私の母は、「賢い姉」のことをよく自慢した。東京に出て洋裁を学び、田舎にもどり、それで生活の糧を稼いだ。店をもった。美男子と結婚したが、彼が稼いでこないので、自分の残り物を食事に出していたという。魚などは、自分が半身を食べてから、残りの半分を出していたという。そのうちに、子どもを2人残して消えたという。
いまから考えると、「賢い姉」は、ちゃんと食事の準備をしたのだから、意外と男性社会だったのかもしれない。
とにかく、家父長制とか男性上位は、非合理的なものだから、存続は難しいだろう。それに、人間は年をとるほど、脳も体力も衰える。威張っても、それを裏づけるものがない。年をとると、周りの人の情けで生きるようになる。まあ、それは仕方がないことで、私は、それも楽しからずやと思うことにしている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます