きょうの朝日新聞に、加藤陽子が『日本人は「そんなに」悪くない』という文を寄稿していた。半藤一利を偲んでである。表題の言葉は、死ぬ直前に半藤が妻に言った言葉からくる。
「墨子を読みなさい。
日本人はそんなに悪くないんだよ。
ごめんね、先に死にます。」
加藤陽子は、半藤一利の言葉に共感したから、それを表題にもってきたのだと思う。
しかし、私は、なぜ、「墨子は読みなさい」をその前に、「ごめんね、さきに死にます」をその後ろにつけて、半藤の言葉を本文で紹介したのか、加藤の意図が私にはわからない。また、表題で「そんなに」にカギかっこをつけたのかも、わからない。
私は、言葉は率直に使うべきで、意図を推定しないとわからない文章を書く人間が嫌いである。加藤は、言語理解が難しい私のような人への配慮が足りないと、いつも思う。
それでも、推測するに、加藤は、半藤が孔子より墨子を愛していることに安心したのかもしれない。また、「それほど」とカギかっこをつけたのは、単にこの言葉に注意をひきたいからかもしれない。
さて、「日本人は」という言葉に、半藤は自分を「日本人」と思っていたかどうかが気になる。それに加えて、私は「日本人」というものが何なのかわからない。「日本国の国民」なのか、「日本文化に育まれた者」なのか、「日本社会に帰属していると感じる者」なのか、わからない。あとの2つなら、「日本文化」とは何か、「日本社会」とは何か、の疑問が生じる。
半藤一利は「日本人は……」と妻に言ったのだから、半藤は自分と妻を「日本人」と思っていると思われる。それをわざわざ加藤陽子が引用し、半藤を偲ぶのだから、加藤も自分を「日本人」だと思っているのだと思われる。
私は「日本人」であることに帰属意識をもつ奴が嫌いである。半藤一利にも加藤陽子にも好意をもてない。もちろん、「日本」に帰属意識をもつ者よりもましだが。
「それほど」を加藤陽子がカギかっこをつけて強調した理由は、半藤も加藤も「日本人」は基本的に悪いと思っているからである。問題なのは、善いとか悪いとかいう前に、人間を類型化している。人間には個人差があり、「〇〇人」と類型化してはならない。また、そもそも、「善い」「悪い」に意味のあいまいさがある。
私は、人間をかってに類型化し あれこれ言うな、と半藤一利や加藤陽子に言いたい。
さて、加藤は、半藤の言葉「日本人の欠点は何かと考えると2つある、当座しのぎの根拠のない楽観性と排他的同調性の2つだと」を紹介している。
私は、「根拠のない楽観性」を特に悪いと思わない。劣等感にさいなまれないために、「うつ」にならないために、斎藤環が言うように「根拠のない楽観性」が心の支えとなる。私がカナダにいたとき、そこでの友だちが “another day, another dollar”と励ましてくれた。
「当座しのぎの」が「根拠のない楽観性」を形容していても、私は悪いこととは思わない。「楽観的」は誉め言葉である。
しかし、「排他的同調性」や「当座しのぎの排他的同調性」となると、これは対人関係の問題であり、私は「悪いこと」と思う。
この2つの「日本人の欠点」を持たない人びとがいて、「全体の帳尻」として、「日本人」はそんなに悪くないのだ、と加藤陽子は寄稿を締めくくる。
本当に加藤陽子も半藤一利もバカだ。人間を類型化して「日本人」とするから、こんなバカなことを言ってしまう。個人というものを理解していない。
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