図書館でC. G. ユングの『ヨブへの答え』(みすず書房)が目に留まり借りて読む。じつは、ずっと以前から、そこにあるのに気づいていたが、ユングが好きでないので、読もうと思わなかった。
読みだしてみると、非常に興味深いものであった。自分の気づいていない聖書の読みが随所にあり、ユングの博識が生きている。それに加え、私が興味を持った理由は、ユングの激しい怒りである。晩年の彼が、なんに対して怒っているのか、誰に対して怒っているかを、知りたくなったからである。
「ヨブ」は旧約聖書の『ヨブ記』のヨブのことである。神の気紛れからヨブがサタンに預けられ、サタンはヨブの家族や部下や財産を奪い、それでも神への信仰を失わないヨブを皮膚病に落す。正義を求めるヨブに、友人たちは神を讃えヨブを罵る。そういう物語である。
ユングがここに神の不正義、暗黒面を見る。そしてそれに腹を立ている。ユングにとって、「神」というものは、人の心の奥にある集団記憶である。
もともとの仏教にとって、「神」は魔物である。「神」は人間を不安と恐怖におとしこむ魔物である。不安と恐怖に落とし込める魔物、心を動揺させるものから自由になることが、「悟り」を開くことである。そのためには、人間界の上下関係や暴力に関与せず、世俗から離れてみずから社会の最下層になることである。しかし、もっとも古い経典の中にも、釈迦の弟子たちの間の憎しみと争いの痕跡がある。
「神」を魔物という考えに対して、もう一つは、「神」を「守り神」という考えがある。平均的日本人の風習に、賽銭箱にお金を投げ入れて、神にお願いすることがある。
古代の「神」は、共同体の「守り神」で、正義をもたらすか、不正義をもたらすかは、追求されなかった。守り神はお供えに答える神であり、不正でかまわないのだ。ユダヤ人の「神」もそんな神である。
ユングは、ヨブが「神」に正義を求めたのは、人間の心の成長と考える。人の心の奥にある集団記憶が変わってきたのである。そういう意味で「神」は人間との相互作用で変わり、人間は「神」に近づき、「神」は人間に近づくのである。エーリヒ・フロムも類似の考えを『自由であるということ―旧約聖書を読む(You shall be as gods)』(河出書房新社)で表明している。
「神」のイメージにもう一つある。「愛の神」である。愛する人と一緒にいるとき、静かにわき上がる喜びである。「愛の神」の「愛」は「快楽」と異なる。ユングは、「神」が人間に近づいて「愛の神」となると願っていたようである。
ユングの怒りは、『ヨブへの答え』の後半で、旧約聖書の『ヨブ記』の「神」への怒りから、新約聖書の『ヨハネの黙示録』の「キリスト」や「神」への怒りに移る。黙示録の「キリスト」や「神」は怒りに満ち溢れ、神が人間に近づき、道徳的になっていくはずだった神が、「恐怖の神」、「復讐の神」に戻っている。
どう考えても、ユングは昔に書かれた書物に怒っているのではない。1952年に『ヨブへの答え』を出版したとき、ユングは、現実の何かのできごとに、現実の人々の心の奥の何かに、現実の善人ぶる誰かの言動に激しく怒っていたと思われる。それが何かを理解したくて、『ヨブの答え』を読み続けている。
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