きょうの朝日新聞の《耕論》のテーマは「自分らしさ?」だった。以前にもブログに書いたのだが、「自分らしさ」という意味が私にはわからない。
《耕論》の冒頭の朝日新聞の側の問題提起に「『自分らしく生きよう』というメッセージを目にすることが多い」「なぜ『自分らしさ』を求められるのだろうか」とある。
本当にそんなメッセージが多いのだろうか。誰がそんなことを言うのか。「自分らしさ」には、「女らしさ」「男らしさ」と同じく、うさん臭さ、陰謀臭さを感じる。
ネットで「自分らしく生きる」を検索してみると、「自分らしく生きるとは、周りの目を気にせずにやりたいことや楽しいと思えることを選択して、自分の気持ちに正直に生きることです」と答えが返ってくる。それなら、「自由に生きよう」で良いのではないか。「らしさ」をつけると、何か、「自分の能力にふさわしく生きよう」と聞こえてしまう。
キズキ塾のサイトをみると、「『自分らしさ』に縛られ過ぎず、自分の生き方を探していきましょう」と書いてある。「自分らしさ」とは自分の思い込みのことを言うのだろうか。
「自分らしさ」という言葉には、自分が何をやりたいのか、わからないという状態が想定されている気がする。それで、「自分の意思」ではなく、「自分の気持ち」に忠実に生きようと言っている気がする。自由のために闘わなくていいのだよ、無理しないでいいのだよ、そのままでいいのだよ、と言っているような気がする。
「自分のやりたいことがない」「自分のやりたいことがわからない」という状態は、我慢し過ぎやあきらめ過ぎからくる、病的な状態だと思う。放課後等デイサービスで、低学年の子どもたちを見ていると、やりたいことがいっぱいあって、大騒ぎである。大人の言うことなんて聞く耳をもたない。
私は、小さい子どもには、我慢しなくてよい、あきらめなくてよい、と言いたい。そして、大人には、自分勝手な都合で、子どもたちの自由を奪うな、と言いたい。
問題は、病的な状態に陥った大人である。精神科の医師が薬を出して解決とはいかない。もし、意志力が強いのなら、思いつくままに自分のやりたいことを書き抜いていき、しだいに明確な自分の意志を育てることである。どうしたら、自分の意思が実現するのか、少しづつ、その戦略を考えていく。
意志力が強くないなら、自分の思いを聞いてくれる相手を見つけることである。自分とともに行動してくれなくてもよい。耳を傾けてくれる人がいるだけで、自分が何がやりたいのか、整理できる。
総じて、自分の思うままに物事はならない。しかし、自分の思うままに動いてみることは、物事がそうならなくても、満足感がある。
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