田辺俊介は、『日本人は右傾化したのか』(勁草書房)で、右傾化とはナショナリズムの強まりと考えている。もちろん、それは彼だけでなく、彼が引用している社会学者たちもそういう考えである。
しかし、伝統的な「右翼」と「左翼」との区別は、支配する支配されるという社会構造を維持しようとすれば右翼あるいは保守、壊そうとすれば左翼あるいは革新である。日本は、戦後も、ずっと右翼的価値観の者たちが社会の実権を握っており、左翼的な価値観が多数派になっていない。
たとえば、小・中学校の国語教育で敬語の使い方を教えている。この敬語は身分制社会での言語用法にすぎない。道徳教育の実施がなくても、学校教育を通して日々、右翼思想の持ち主が再生産されているのである。社会科では、「権利と義務」があたかも民主制社会の基本のように教えられている。「権利と義務」は、支配者と被支配者(臣民)との関係で生じる契約である。
そして、「法の下の平等」を保障するなら、象徴天皇といえども天皇制を廃止すべきである。血のつながりにもとづく天皇制なら、平等を基本とする民主制社会にあってはならない。
右翼思想の最たるものは、プラトン主義である。プラトンの『国家』(Πολιτεία)を読めば、プラトンがいかに右翼であるか、わかる。彼は「自由」とか「平等」とかは、とんでもない思い込みであると考えている。
『国家』の第8巻で「国制(πολιτείαν)」を5つに分類し、良いのはただ一つ、哲人の支配で、あとは4つの悪い「国制」であるとプラトンは言う。
ここで「国制」は藤沢玲夫の訳語で、πολιτείανは「国の政治体制」のことである。
また、「哲人の支配」は私が名付けただけで、プラトンは「王制(βασιλεία)」「優秀者支配制(ἀριστοκρατία)」と呼んでいる。日本語名は藤沢がそう訳語をあてだけで、プラトンは、支配者がひとりか複数かを区別するために、呼び名を変えただけである。
この国制では、教養あるもの(哲学者)が国民を支配すると同時に、国民全体が「節制(σωφροσύνη)」の人であることをいう。「節制」とは、質実剛健の精神を持ち、欲望を制御できることをいう。すなわち、享楽的でないことをいう。支配者に要求するのではなく、プラトンは支配者を含む国民全体に要求するのである。
4つの悪い「国制」を、プラトンがましと考えるものから、順に並べると、つぎのようになる。
(1)名誉支配制(τιμοκρατία)
(2)寡頭制(ὀλιγαρχία)
(3)民主制(δημοκρατία)
(4)僭主独裁性(τυραννίς、τυραννουμένη πόλις)
そして、哲人支配制から、「名誉支配制」、「寡頭制」、「民主制」、「僭主独裁制」と、順に、しだいに国制が悪い国制に変化していくというのがプラントンの理論である。進歩ではなく、歴史は退歩していくと思い込んでいるのだ。
プラトンの言う「名誉支配制」は、クレタやスパルタふうの国制で、勝利と名誉を愛する国制のことである。現代ふうにいうと、「軍国主義体制」になる。
たとえば、「寡頭制」では、金持ちであることが「善」であり、金持ちがもっと金持ちになろうとし、奪われぱっなしの貧乏人が「寡頭制」を倒して「民主制」にしようとする、とプラトンは考える。
では、プラトンがなぜ「民主制」をもっとも悪い国制とするのか。「民主制」では、みんなが「自由」になるからである。好きなことを言って、好きなことができるからである。理想の「節制」から、みんなが大きく外れてしまうからだ。
この自由放任の国制で、「すべての者が金を儲けることに努めるとしたら、たいていの場合、生まれつき最もきちんとした性格の人々が最も金持ちになる」。すると、金持ちからお金を奪おうとする者たちと、奪われないとする金持ちのあいだに争いが生じる。奪おうとする者のリーダーが私兵を抱えるようになり、独裁者になる。
プラトンは、このようにして、支配する支配される社会構造をなくせないと考え、「民主制」は混乱の源とする。すなわち、これが、「右翼」や「保守」の正体である。
プラトンは、植松聖や安倍晋三と同じく、自分だけが社会全体のことを考え、正しいのだと思い込んでいる。
国王の上に古代の巫女がいる神権国家が、プラトンの理想とする国家なのかと思いました。
自浄作用がある国家ということです。
民主制ではそれが恣意的に「間引き」をすることになり、権限を与えることはできないので、結局は、犯罪となって現れるのではないかと思います。