きのうの朝日新聞『〈耕論〉天皇の開会宣言』は何が焦点なのか、わからず、見逃していたが、コロナ感染拡大の中で東京オリンピックを強行することの天皇の不快感を宮内庁長官を介して表明(拝察)したことを3人が三様に論じていることに、きょう、ようやく気付いた。
天皇個人として、不快なオリンピックの開会式で開催を宣言することの是非を朝日新聞がとりあげたものである。
問題点の整理は赤坂真理が一番よくできているように思える。
人間である天皇に、天皇が国民の象徴であるから非政治的であれという理屈で、感情を殺し、政権の都合をおしつけるという、不条理を指摘している。それとともに、オリンピック開催に反対しながら、行動しない国民が、国民の代わりに天皇がオリンピックを阻止することを望んでいることを懸念している。
赤坂の指摘は、一言で言えば、象徴天皇制の危うさである。
私が一言付け加えれば、天皇制を廃止し、天皇が一国民になればよいことである。そうなれば、言論の自由が保障され、オリッピク阻止を声高に叫ぶことができる。そして、国民も、表現の自由「デモ」の権利を使って自分の意思を表明すればよい。
いま、東京オリンピック開会式が行われているが、その会場の外で、若者がオリンピック反対のデモを行っている。天皇でなければ、デモに参加できるのだ。
清水剛は、形式論をふりまいて、議論から逃げているように思える。
《五輪憲章では、開会宣言は開催国の国家元首が行うと定められています。》
《憲法1条で、天皇は「国民統合の象徴」とされています。》
《統治行為としてではなく、国民統合のために発信するのは、まさに現代的な元首の役割です。》
《五輪による感染拡大への懸念を「拝察」させるのは、2つの役割を両立させる「裏技」だったのではないでしょうか。》
この「国民統合」とは何をいうのか。どうすればよいのかの人びとの意見が割れたとき、「統合」とは何をいうのだろうか。「話し合いましょう」ということなのか。誰かが強い実権をもち、正しい意見が無視され、多数の思いが無視されているとき、「国民統合」とは、結局、実権をもっているものに味方し、根本的問題の解決を遅らすだけではないか。
クオン・ハクジュン(権学俊)は、昔から政府がスポーツを政治利用してきていると指摘した上で、天皇が宮内庁長官に自分の意思を発言させたのは、象徴天皇制を維持するための策略だ、とつぎのように言う。
《天皇が意思を何も示さないまま開会式に出席するのは、象徴天皇制に悪影響を及ぼすという危惧があったからでしょう。》
天皇が宮内庁長官に代弁させた行為を、清水剛の『裏技』より一歩進んで、政治行為と批判されるリスクを冒したとみている。
ところで、今回の東京オリンピックの開会式は本当につまらなかった。こんなものにお金をかけることはやめた方がよい。開会式会場の外の「東京オリンピック反対」のデモのほうがずっと面白そうだった。
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