私は、米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5をいまも愛用している。そして、使うにあたって、ジョエル・パリスの『DSM-5をつかうということ その可能性と限界』(メディカル・サイエンス・インターナショナル)が参考になった。この原題は、”The Intelligent Clinician's Guide to the DSM-5®”である。
ジョエル・パリスは、現在の精神医療の診断カテゴリーは、病理によるのではなく、あくまで、徴候(signs)と症状(symptoms)の観察にもとづく症候群(syndomes)なので、どうしても、併存症が多くなったり、また、正常なのか病気なのかの境目があいまいになったりする、と指摘する。そのため、診断基準そのものが、外部からの圧力を受けやすくなっているという。
ここで、徴候とは客観的な身体的変化のことで、症状とは主観的な不調のことである。私のように子どもを相手にしていると、子どもが自分の不調を訴えることはめずらしく、多くは保護者側からの訴えである。保護者側からの訴えが的を射ていると限らない。DSM-5では、持続的する心的不調(mental disorders)を病気と考えている。そのため、保護者の正確な訴えが大事だが、子どもの「ときおり」のパニックでも、いっぱい いっぱいの母親にとっては「毎日毎日」のことになる。
ジョエル・パリスの言う外部からの圧力とは、患者団体や医薬業界からである。保険業界が取り上げられていない。レイチェル・クーパーのいうように、保険業界からは、心的不調の患者を増やすなという圧力があるはずだと私は思っている。ネットではDSM-IVの改訂の大きな理由のひとつは、心的不調の患者の急激な増大といわれている。
ジョエル・パリスは患者団体の圧力の例として、DSM-5で自閉症とアスペルガー症とを合わせて自閉スペクトラム症としたときのことを書いている。診断基準の境界域にいる患者の家族が、高額な治療と特別な学校教育の費用がなくなることを心配し、また、アスペルガー症がスティグマ(刻印による社会的差別)を伴う自閉症と一緒に扱われることをいやがったという。これは医学的な問題ではなく、社会的政治的問題である。
私自身もDSM-IVのアスペルガー症や高機能広汎性発達障害の存在は疑わしいと思っている。スケジュールを立てられない、提出物のスケジュールを守れない大学生を「発達障害」のせいにするのは、社会的偏見をより強めるだけだ、と私は思う。
ジョエル・パリスが「自閉症は遺伝性で脳機能の障害に起因することが知られるようになった」と書くが、遺伝子が特定されていなく、また、脳機能のメカニズムが解明されていない現段階で、この主張は言いすぎだと思う。「自閉症の一部には遺伝性で脳機能の障害に起因すると思われるものもある」とすべきではないか。
ジョエル・パリスの主張で最も重要なのは医薬品の使用に関するものである。心的不調の重度なものには薬が確かに効くが、軽度や中度なものはブラセボ(偽薬)と同程度の効果しかないという。そして、軽度や中度のものは自然になおったりもするという。同じ事実は医療哲学者のレイチェル・クーパーも精神科医の斎藤環も指摘している。
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私は、中学2年のときにウツになった不登校の高校生をNPOで指導したが、20歳になった彼はいまだに薬を飲んでいる。朝、寝床から出られない、気力がなんとなく湧いてこないという、斎藤環のいうところの「社会的ウツ」である。いくら長くウツの薬を飲んでいてもそれだけでは回復するはずがない。
はじめ、彼の話を聞いても、ウツや不登校の背景に、深刻ないじめがあったように思えなかった。何年かたって気づいたが、プライドが高く、同級生による いじめがあったことを認めることができない、ということに気づいた。
本人の訴えを言葉どおりそのまま信じてはならない。また、深刻に見えなくても、希死の思いを秘めている。プライドのため、本当の自分を見せないよう、演技する。したがって、この子は人間関係が長つづきしない。相手が本当の自分のことを気づく前に、逃げるのである。
気になったのは、両親や先生に強い不信感があり、適切な人間関係がもてないことだった。母親と会うと、しんぼう強く聡明なタイプであった。中学・高校の数学を教えながら、哲学、宗教、言語学、論理学の話しをしながら、それとなく母親のことをほめていたら、母親とは会話するようになった。いまは、家族が生きる支えになっている、と彼は私に言う。
新型コロナ騒動の間に、彼は かかりつけの精神科医を変えたとのことで、今度の医師が自分の話を聞いてくれると言う。今度こそ、うまくいくと いいのだが、と祈っている。
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ジョエル・パリスの”The Intelligent Clinician's Guide to the DSM-5®”の第2版が2015年3月オックスフォード大学から出版された。日本語訳の『DSM-5をつかうということ その可能性と限界』は、第1版に基づいている。第1版は、DSM-5の正式出版前に書かれた、すなわち、DSM-5の草稿に基づいている。
第2版は、2章増え、DSM-5出版後の精神医学会の反応も書かれている。第1版の日本語訳に質の問題があるので、この際、第2版に合わせて改訳したら、どうだろうか。面白い本なのでもったいない。
精神医学に限らず,臨床医学の疾患の多くは徴候と症状の観察によって分類されてきており,その病理が解明されるのは,科学が進歩した後の世になってからのことです。
DSM-Ⅳ-TRにおける「アスペルガー障害」は,DSM-5の「自閉スペクトラム症」のうち著しい言語の遅れがないもの,ということになりますが,これはおそらくチョムスキーの言語生得説に基づいた分類で,チョムスキーの仮説が明確に否定された後のDSM-5では,言語の遅れがある「自閉性障害」と言語の遅れがない「アスペルガー障害」を別カテゴリーにする必要がなくなったということです。DSM-5の「対人的相互反応の欠陥」「限定された反復的な様式」の診断基準を満たす,「著しい言語の遅れがない自閉スペクトラム症」は確かに存在しています。(一般社会に流布されている「アスペルガー」とは,本来DSM-5でいえば「パーソナリティ障害」にカテゴライズされるべきもので,正しい診断ではありません。)
また,DSM-Ⅳ-TRでは「不安障害」の中に「強迫性障害」が含まれていましたが,DSM-5では「不安障害」と「強迫性障害」は明確に分離されました。これも神経科学的知見の集積によるものです。
臨床医学ですから,患者団体や医薬業界からの「圧力」によって多少実態と合わせている部分があることは否定しませんが,疾患概念に関わるような診断基準の根幹部分にそのような圧力が反映されることはありません。
ジョエル・パリスと同様に,日本の多くの精神科医は,基礎神経科学の知識が欠けているために,DSM-5改訂の神経科学的な意味合いが理解できていません。精神医学に限らず,診断基準とはどのような手続きで改訂されているのかを知っている臨床医ならば,少なくとも「診断基準そのものが,外部からの圧力を受けやすい」などという非常識な意見は出てこないでしょう。