古代において、王の支配が強くなると、その支配を逃れるのはむずかしい。主なる職業が農夫であるからだ。王に土地を抑えられているから、王に従うことを拒否すれば、居るところがなくなる。聖書や史記を読むと、王に逆らったものは、山に潜み、盗賊になるしかなかった。
前漢の創始者の劉邦は、地方の末端の酒飲みの小役人であったが、秦の始皇帝の咸陽へ賦役の農夫を移送する途中、逃亡者が続出してしまい、咸陽に行けば厳罰を受けるので、残った農夫を引きつれて、山に潜み、盗賊の親分となった。
しかし、聖書の舞台になった中東では、盗賊以外に、商人になる手があった。商人といっても、行商人である。旧約聖書での「自由」は、まず、「移動の自由」「取り引きの自由」である。
新共同訳の『創世記』には「自由」という言葉が3箇所に出てくる。34章10節、34節21節、42章34節にでてくる。新共同訳より古い口語訳では「取り引き」と訳している。ヘブライ語聖書や70人訳ギリシア語聖書にあたってみると、ヘブライ語では סחרが、ギリシア語ではἐμπορεύομαιが使われている。これらの言葉は、「旅のものが商売する」すなわち「行商する」という意味である。
土地に縛られない、逃亡できるというのが、古代の「自由」であった。新約聖書のイエスやパウロは旅をして布教したから「自由人」である。
私の母は、戦後の混乱期、乳母車に私の兄を載せ、農家を周り、たべものを仕入れ、寝ている兄の下に隠して町に戻り、警察の目をかいくぐって、売り歩き、父が戦地から戻るまで、生き抜いた。売り歩く段になると、兄は目をあけ、ニコニコして買い手に愛嬌をふりまき、母を助けたという。
私の母も「自由人」であった。「自由人」とは「家造りらの捨てた石」である。
菅義偉は自助というとき、みんなが政府に逆らって生きる「自由人」になることを奨励しているのだろうか。彼が「叩き上げ」と自負するとき、強い者に逆らって、自力で生き抜いた経験があるのだろうか。
どうみても、結局、菅は強い者に寄り添って、その代行者としての地位を確保しただけである。「自由人」ではない。安倍晋三の自滅を待って、二階俊博とタグを組んで、総理大臣の座を射止めただけである。
彼は酒飲みでないから、劉邦よりマシかもしれない。また、安倍政権下で、最低賃金を上げることに賛成した数少ない安倍の部下である。
しかし、彼は「自由」というものを意識したことはなかったのではないか。官僚が総理大臣に逆らえば罰を与えるでは、独裁者の発想である。政府に逆らうものがいる日本学術会議はつぶしてしまえでは、独裁者の発想である。
自由を追求しなかった「叩き上げ」はヤクザの舎弟にすぎなない。舎弟が組長になったからといって、なんの称賛に値しない。
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『マルコ福音書』12章10節
あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が 角のかしら石になった。
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