きょうの朝日新聞に、斎藤環のインタビュー記事『ヤンキー的なムラ意識』という記事がのった。デジタル版では2日前にネットに上がっている。
読んでみると、「ヤンキー」を何か特別な意味に使っているようである。そういえば、去年の9月30日に、朝日新聞の《多事奏論》に高橋純子が、「ヤンキーな政治からヤクザな政治へ」と書いていた。
私は、坊ちゃん嬢ちゃんが嫌いである。いい子ぶってるやつが嫌いである。それと同様に、坊ちゃん嬢ちゃんは「ヤンキー」が嫌いであるようだ。「ヤンキー」に偏見をもっているようだ。
斎藤によると、ヤンキーはつぎのようである。
《日本社会に広く浸透している『気合いでアゲていけばなんとかなるべ』という感性です。一種の村意識に近い『奉仕するなら仲間に入れてやるけど義務を果たさないやつは村八分』という排他性もあります。》
腹がたつ。前半が定義、後半が属性のようだ。マイノリティが気持ちを高ぶらせて、どこが悪いのだ。私の見るところでは、日本社会には、逆に、ウツかイライラかニヒルの状態の人のほうが圧倒的に多い。
人はストレスを抱えるとイライラの状態になる。イライラの状態はウツの前兆である。ここで、ウツにならないように踏みとどまろうとする人は、感情を殺そうとする。無痛の状態になろうとする。それがニヒルである。
私はNPOでそういう子どもたちや若者を相手にしている。斎藤環が「気合いでアゲていく」ことをなぜ非難するのか、わからない。誰かから「気合い」をいれられるなら、それは恫喝という精神主義である。しかし、本人が高揚できるなら、それでいいのではないか。
斎藤の後半は、「ヤンキー」が集団をつくるという。徒党を組むのは、弱い者が強い者に対抗する手段のひとつである。私は徒党を組むのが嫌いだから、1匹オオカミとなることも少なくない。しかし、旗印を明確にすれば、人は自然に集まる。人は、本来、自分の上に人があるのを好かないようだ。反抗の旗印のもとに人は集まる。
「ヤンキー」とは、跳ね上がりである。既成の社会にたてつく者である。それを一方的に悪くいうのには納得しがたい。
集団でムラをつくっているのは、斎藤のような高学歴の文化人ではないか。文章で食っていくのも絵やイラストで食っていくのも、彼ら仲間内での助け合いではないか。
私は、既成社会から知的に劣るとか反抗的だといって社会から切り捨てられた子どもたちに自尊心と生きる糧を確保するために、高学歴なやつのムラ社会を破壊し、切り捨てられた子どもたちも、自分の文章と絵やイラストで食っていけるようにしたい。
斎藤は、子ども時代に、誰かにいじめられ、それを「ヤンキー的」と名付け、すべての嫌悪すべきものをそこに押し込めているのではないか。
斎藤いわく、
《アベノミクスに内在しているのは『経済をアゲて置けば何とかなる』という雑な発想》
《『家族と絆が一番大事』という価値観もヤンキー的》
《強烈な仲間至上主義はヤンキーの中核的な価値観》
《リベラルとヤンキーは食い合わせが悪い》
《リベラルは説明責任にこだわるぶん、打たれ弱い印象》
《清濁併せのむ気合いとノリ》
まったく、坊ちゃん嬢ちゃんの戯言に聞こえる。
「経済をアゲる」ということを J.K. ガルブレイスも批判している。「経済をアゲる」と言っているのは大企業の経営陣で、彼らをガルブレイスが批判しているのである。
日本でもGNPがあがったとか、下がったとか、新聞が大声で報道している。経済をアゲるよりも、貧困をなくすことである。餓死者をなくすことである。お金がなくて病院に行けずに死ぬ人をなくすことである。
経済をアゲても不平等がある限り、貧困はなくならない。格差が拡大するだけだ。リベラルを自称する人は中間層を増やすというが、平等をおし進めれば、中間層は相対的に貧困になるのだ。だから、没落すべき中間層は、能力主義を旗印に、格差社会を守ろうとする。中間層なんていらない。
「経済をアゲる」ことと「ヤンキー」とは何も関係がない。「ヤンキー」とは既成の社会に反抗する者である。
私は、子ども時代、不良少年少女との付き合いが多かった。私は彼らの住む所にいって一緒になって遊んだ。本当に貧しかった。下宿屋や長屋の一間で家族が暮らしていた。豚を飼っていて、その小さな囲いの中で泥んこになって遊んだ。不良少年少女は、坊ちゃん嬢ちゃんに対する反撃である。
私の子ども時代と現在との違いは、1970年を境に、若者が権力に負け、既成社会への反抗が暴走族になるか、成人式に袴で出かけ暴れるしか表現できなくなったことである。権力の中心に反抗を向けなくなり、「ヤンキー」が「ヤクザ」化したことである。
革命に、アナキー社会の実現に、昔のヤンキーのように、楽しく高揚感をもって進もうではないか。権力の中枢に向かって石を投げよう。
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