猫じじいのブログ

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東畑開人の『居るのはつらいよ』最終章のどんでん返し

2019-10-01 21:19:44 | 経済思想

東畑開人の『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)の最終章に進もう。

はじめ、京大ハカセの東畑は、デイケアで、みんなの目がつらかった。メンバーさん(利用者)のように何もしないで「いる」自分を、周りのみんなが非難しているのではないか、と彼は被害妄想におちいる。これが、最初の「居るのはつらい」だった。

そのうち、「とりあえず座っている」とは「みんなと一緒にいる」ということだとわかり、それを居心地がいいと思うようになった。

ケアよりセラピーを上に思っていた京大ハカセは、考えをしだいに変える。

ところが、第6章でデブのダイさんが辞める。第8章でハゲのタカスエ部長が辞める。つづいて、ガリのシンイチさんが辞める。京大ハカセと仲のよかった男性看護師3人が辞めたのだ。

デイケアでは、男性看護師に限らず、スタッフがつぎつぎ辞めていくが、あたかも、何もなかったように、同じようなデイケアの1日が過ぎていく。

しかし、最終章で、京大ハカセも、血を吐き、それが最後の一滴となり、辞表を出す。

「カウンセリングの患者のことを考えて、やめるまでの期間は3か月とった。」「だけど、そうしたことで、僕は幽霊になった。僕はまだ職場に『いる』。だけど、職場のいろいろなことは僕を抜きにして進んでいく。」「だから、僕は『いる』けど『いない』。居場所がない。すると、存在が不透明になり、足が透けてくる。幽霊になる。」

そして、ふたたび、「居るのがつらいよ」と京大ハカセはつぶやく。

高い給料で雇われたのは、大量採用大量離職の職場だからだったのだ。自分はスタッフとして雇われたが、人間と思われていなかったのだ。

しかし、本当は、もっと複雑な気持ちだろう。メンバーさんは、明らかに、個人としてのダイさん、タカスエさん、シンイチさん、京大ハカセを「完全に身を委ねる」相手として必要としていた。ケアする人間をロボットが替わることができない。ロボットに感情がないから、共感することができない。スタッフを人間として扱ってないのは、雇用者側だ、経営者側だ。

著者は、人が「隠れ家」を必要とするという。人は「居るのがつらい」とき、居場所となる「隠れ家」を求める。著者は、それを「アジール(Asyl)」と呼ぶ。古代では、「アジールに逃げ込めば、罪人は庇護され、安全を確保することができるのだ。」「現代の罪人とは、文字通り法律に違反した人ではなく、集団の規範から外れてしまって、なんとなく生きづらくなってしまった人だ」と言う。心を病(や)んだ人のことだ。

そして、著者は、「アジール」は容易に「アサイラム(asylum)」になると言う。

「アジールとアサイラムでは同じことが行われている。しかし、一方は『いる』を支え、他方は『いる』を強いる。」

「アジール」と「アサイラム」も、ギリシア語“ἄσυλος”からきている。辞書的にいうと、両者は同じ意味、「避難所」とか「収容所」とかで、ドイツ語か英語(ラテン語)かの違いにすぎない。日本では、ハリウッド映画が「アサイラム」を精神科閉鎖病棟の意味に使うので、日本では、著者のような誤解を生んだのであろう。

とにかく、著者が言うように、「避難所」が容易に「収容所」になるのだ。

NPOで働いている私には、これがよくわかる。それは、デイケアや福祉が商売になるからだ。そして、スタッフが大事にされない。メンバーさんの依存を受け入れる労働をしているのに、経営者からは交代可能な傭員としか見られない。

ところが、著者は「経営者」を責めずに、もっと抽象的な「会計の声」を責める。

「会計の声は、予算が適切に執行されているのか、そしてその予算のつけ方そのものが合理的であったのかを監査する。コストパフォーマンスの評価を行い、得られたベネフィットを測定し、そのプロジェクトに価値があったのかどうかを経営的に判断する。」

福祉事業がお金になるといっても、国(政府)の福祉政策をあてにしている。国は、事業者が増えると、予算を削って、事業の効率を求める。この「効率」が問題だ。事業者はお金が欲しくて事業を始めたのだから、従業員の労働を強化するか、給料を低くするかしか、選択肢がない。事業者は金融から借金しているかもしれない。

著者は「会計の声」がスタッフの心の中に内在化し「ニヒリズム」になると言う。外の声が内在化するということは、心を病むことの始まりで、「ニヒリズム」とは関係ない、と私は思う。

私のNPOでも、国の福祉政策にもとづき、放課後デイサービスをしている。来る子どもたちは、「発達障害」など、なんらかの問題を抱えている。室長は「こんな楽しいことをしてお金をもらうわけにいかない」と言う。放課後デイサービスの支給額が年々減ってきて、経営が難しくなっているが、すべて、自分が猛烈に働くことでカバーしようとしている。私は彼女の健康を心配する。

ここに、福祉の根源的問題がある。国民が福祉を本当に必要としないかぎり、福祉にたずさわるスタッフは、善意で働き始めても、疲れて敗退していくしかない。「会計」の目は、金儲けすることを人生の目的とする国民に向けられなければならない。「効率」を善とする銀行家や官僚に国の政策をゆだねてはいけない。

福祉とは何か、国民の目に明らかにして、福祉が必要なのか、不要なのか、の白黒をはっきりさせる戦いが起きることが望ましい。ケアがなければ生きていけない人がいるのだ。なぜ、ケアが必要な人を見捨てるのか。なぜ、ケアの現場を見ないのか。なぜ、ケアに参加しないのか。現在の福祉は、ケアされる人とケアする人の現場を見えないようにしている。だから、効率を唱える「会計の声」が勝つ。

そのために、「津久井やまゆり園事件」の裁判が開かれ、福祉の実態を明らかにすることが大事である。元職員が悪いで済ますのではなく、国や県の責任が問われないといけない。


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