猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

その子 発達障害ではありません、社会こそ いびつなのだ

2019-12-28 23:12:41 | 愛すべき子どもたち

きょうの朝日新聞の読書面で、小説家の山下澄人が韓昌完の『その子、発達障害ではありません』(さくら舎)を紹介し、「社会こそ いびつなのだ」と書いていた。

NPOで「放課後デイサービス」にかかわる者として、韓昌完と同じく、特別支援学級に通い「ショウガイ、ガ、アル」といわれる子どもたちをみてきた。じつは、これらの子どもたちは千差万別である。じっさいには、平均的でない子どもたちを、画一的な教育をほどこすのに邪魔になる、という理由で、特別支援学級に閉じ込めているのだ。

「障害」は法律用語であり、「障害者」と見なされたひとを行政が支援しますという意味でもある。それなのに、「障害児」という刻印を押されながら、十分なケアを受けていないとき、将来の生きる道が制限されるとき、「ショウガイ、ガ、アル」と言うな、と叫びたくなる。

10年以上も前、「発達障害支援法」ができたとき、「療育センター」は、子育てのコツを学んでもらうため、子どもとともに、親にも毎日通ってもらい、「療育」に参加してもらったという。現在は「発達障害児」が多すぎ、このような手厚いケアを受けられない。療育センターには何か月に1回通うものになっている。

福祉とはお金のかかるものだ。「放課後デイサービス」が「療育センター」を補うものになっている。

集団検診をする医師もいい加減である。特別支援学級にはいる子どもに、「発達障害の疑いがある」、「自閉スペクトラム症の傾向がある」という曖昧な診断の子が多い。また、単なる情緒不安定なだけの子どもも多い。症候群であるから、診断基準があっても現場では曖昧にならざるを得ないのだが、「あいまいな診断」に対して誰も責任をもたず、教育の場では隔離される。

NHKは「発達障害は恥ずべきことではない」というキャンペーンを行っている。確かに、平均的でないのだから「個性」と考えればよい。ところが、NHKは「個性」と言わずに「特性」と言う。ここに「偏見」がある。「発達障害児」を特別の個性をもった児童として、気をつけて扱えば良いという、上から目線の先生方がNHKのバックについていると考えられる。

子どもは工業製品ではない。

上から目線で扱うのではなく、子どもも人間であるという敬意をもって接するべきだ。それが、「寄り添う」ということなのだ。

社会の考え方が間違っている場合も多いのだ。人の不幸で税収が増えればよいと言うカジノ推進派の議員がいるとは、社会のほうが異常ではないか。

「発達障害」という言葉は、精神科的には「神経発達症」(Neurodevelopmental Disorders)という症候群のことで、「知的能力障害」や「コミュニケーション症」や「自閉スペクトラム症(ASD)」や「注意欠如・多動症(AD/HD)」や「限局性学習症(SLD)」や「運動症群」などいろいろある。

(注:「知的能力障害」は“Intellectual Disability”の訳で、アメリカの患者団体が国会に働きかけ、この呼び名を法律で制定した。「能力障害」は“Disability”の訳である。)

これらの診断名は分類名にすぎず、そのおのおのに、さらに いろいろな個性の違いがあり、その程度にも差がある。世のなかの本は、単にステレオタイプ的な理解が書いてあるだけで、偏見のもとになる。「個性」とは、ひとりひとり、異なるのだ。人間は、「かけがえのない」という意味で、本来ユニークなのだ。

しかも、環境のせいで、発達が遅れている子どもたちが、そのまま見過ごされ、きちんと育てられていないケースもある。

そもそも、日本には、集団行動ができることを求め、身分差別が当然で、上の言うことを下は推測して動け、という風土がある。それに加えて、財界と政府が、ゴールが1つしかない競争に子どもたちをかりたてようとする。さらに、教育に効率と画一性を求める。

私のNPOに来ている不登校の子どものひとりが、「みんな、お金が一番なのだ、友情より、愛より、お金なのだ、だれとも話ができない」と言っていた。

私は、韓昌完や山下澄人と声を合わせて、「社会こそが いびつなのだ」と叫びたくなる。支援すべき子どもや大人がいっぱい いるのに、「障害者」の刻印を押すだけで支援もせず、排除する社会は いびつだ。