カール・カウツキーの『中世の共産主義』(法政大学出版局)を読みだしてから、1か月を超えている。以前よりも、読めるようになった。ネット上の、Spiegel OnlineのProject Gutenberg-Deでドイツ語の原文も見つけ、無料ダウンロードし、参照している。
私が最初に興味をもっていた、16世紀のドイツの農民戦争、トーマス・ミンツァーの反乱は本書で扱われていないが、15世紀のフス戦争までが、『中世の共産主義』で書かれている。
この『中世の共産主義』は、“Vorläufer des neueren Sozialismus”の第1巻の翻訳で、続く巻に、カウツキーがミンツァーの反乱を書いている。第1巻の翻訳者、栗原佑は『中世の共産主義』の出版の1980年に急死したので、続く巻は日本語に翻訳されていない。そのままになっているのが残念である。
しかし、キリスト教世界で異端として抑え込まれたものが、下層民の反乱で、共産主義のさきがけであったとする、本書のカウツキーの見方に、私もいつの間にか賛同者になっている。
共産制もゲマインシャフト(共同体)も同根だとするが、カウツキーの見方である。
カウツキーは、社会民主主義党(Sozialdemokratische Partei Österreichs)に属していた。この“sozial”という語は英語の“social”にあたり、20世紀初頭の人びとにとって、とても、素晴らしいものに響いたように思える。エンゲルスの『空想から科学へ』の原題は、“Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft”であって、共産主義 “Kommunismus”ではなく、社会主義 “Sozialismus”が使われているのも、このためだ。
当時、社会的(“sozial”)はゲゼルシャフトに対応し、近代市民社会の理念と適合すると考えられていた。カウツキーも、「現代社会」を“der modernen Gesellschaft ”と言っている。
作家トーマス・マンが、1930年のベルリンの講演でドイツ社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands)を擁護し、ナチス、社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparte)をなじったのも理解できる。ナチスが近代市民社会を全否定するものだったからである。
カウツキーの『中世の共産主義』が私にとって読みづらかったのは、プラトンの『国家』の引用からはじまり、新約聖書の『ヨハネの黙示録』に続いたからだ。私は、自分の理解できないものにすごい抵抗感が先だつ個性をもっている。
このような書き出しをしたのは、カウツキーにとって、『国家』と『ヨハネの黙示録』が中世の共産主義的反乱を理解する鍵であったからだ。
ゲマインシャフト(共同体)がゲマイン(共同所有)という言葉からくると、私はいままで思っていなかった。それに気づくと、『中世の共産主義』が読みやすくなる。
『中世の共産主義』で「妻と子どもの共有」という言葉が何度もあらわれる。これは、原文の“die Gemeinschaft der Weiber und Kinder”を栗原がそう訳したのである。ゲマインシャフトを「共有」と訳したのだ。
人のモノは自分のもの、自分のものは人のモノという人間関係が、「共同体」である、とカウツキーは考えるのだ。
(現在、NPOで働いていると、子どもが私的所有制のルールを理解しない、と悩む親がいる。私も、中学生になっても、人のモノ、自分のものという区別ができなかった。私有制とは自明な概念でない。)
近代の「社会主義」は生産手段の共有を主張し、中世の「共産主義」は消費の共有を主張するものだと、カウツキーは考えている。
「妻と子どもの共有」というと女性の蔑視と捉えられるが、「家族の廃止(die Aufhebung der Familie)のことである。
初期キリスト教の共同体を再生しようという運動が中世に何度も起きるのだが、異端として鎮圧されてしまうか、みずから腐敗してしまう。モノの共同所有が相続という慣習によって壊されてしまう。相続とは、仲間より、自分の妻や子供を優先するからである。運動のリーダーは、当然、家族の廃止という概念にいたる。
これに対するカウツキーの価値判断は、私にはまだ読み取れない。しかし、中世の「共産主義」を弾圧する側にとって、単婚を守らない、家族の廃止を主張することは、弾圧する側にとって、「不道徳」と攻撃する口実となった、と、カウツキーは書く。
福音書では、イエスに従うものが、みんなで食事をするという光景がよく出てくる。
私の子ども時代、戦後の日本社会でも、小商店や職人の職場では、従業員は雇用主の家族といっしょに同じものを食べるのが普通であった。また、倍賞千恵子が証言しているように、外猫のように、子どもが他人の家のちゃぶ台に座って食事にあずかることは少なくなかった。
私の考えていた共同体とはその程度のものであったが、中世の共産主義とは、『マタイ福音書』に言うようにすべてを捨てて、イエスにまねることである。
戦後の日本のように、社会が豊かになれば、共同所有のいうのは難しくなる。それが腐敗なのか、仕方がないことなのか、簡単には言えない。しかし、資本主義社会だから、勝者が弱者を切り捨ててあたりまえ、という発言を耳にするとそれは違うだろうと言いたくなる。
近代社会は、私有財産や家族制を否定しないが、助け合って生きることを前提としている。家父長制を否定し、家族の一員の自由を尊重し、結婚しない生き方、競争しない生き方も認めている。
(もっとも、私は家屋の共同所有に賛成だから、賃貸の集合住宅に住んでいる。)
しかし、勝者が弱者を切り捨ててあたりまえという発言が出てくると、学校教育が競争社会、格差社会の洗脳機関になっているのではないか、と思ってしまう。競争したって誰も得をしない。得をするのは、競争させる権力者側でしかない。