猫じじいのブログ

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きょうは日米開戦、真珠湾奇襲攻撃の日から78年

2019-12-08 22:38:55 | 戦争を考える


きょう、12月8日は、78年前に、日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日である。日米戦争(太平洋戦争)が開始された日である。

あすは朝日新聞の休刊日というのに、今日の朝日新聞で、78年前の真珠湾攻撃に言及しているのは、『天声人語』だけである。つぶやきとして言及するのではなく、ちゃんと論説すべきではないか。

1年前のきょう、朝日新聞は種々湾攻撃について、次のように記している。

「1941年12月8日、旧日本海軍の空母6隻、航空機約350機などからなる機動部隊がハワイ・真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃。米軍艦6隻が沈没し、米兵約2400人が亡くなった。日本側の被害は未帰還の航空機29、帰死者64人など。宣戦布告が遅れ、米国では「だまし討ち」との批判がある。」

作家など知識人は、日米開戦にどう思ったのだろうか。きょうの『天声人語』によれば、大正デモクラシー期の著名な作家の武者小路実篤は開戦直後につぎのように書いているという。

「真剣になれるのはいい気持ちだ。僕は米英と戦争が始まった日は、何となく昂然とした気持ちで往来を歩いた」

武者小路だけではない。ドナルド・キーンの『日本人の戦争―作家の日記を読む』によれば、多くの日本の作家たちや文芸評論家たちが、1941年12月8日の真珠湾攻撃に感激し、「黄色の肌の大和民族が白人を打ち破る時がきた」と、日記に書きつづった。

戦後「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳で人気を集めた英文学者伊藤整は12月9日の日記につぎのように書いた。

「私などは(そして日本の大部分の知識階級人は)13歳から英語を学び、それを手段にして世界と触れ合ってきた。それは勿論、英語による民族が、地球上のもっともすぐれた文化と力と富とを保有しているためであった。(中略)この認識が私たちの中にあるあいだ、大和民族が地上の優秀者だという確信はさまたげられずにいるわけには行かなかった。(中略)私たちは彼等のいわゆる「黄色民族」である。この区別された民族の優秀性を決定するために戦うのだ。」

すなわち、真珠湾攻撃によって、いままでの英米に対する劣等感が振り払われ、スッカとした(昂然とした)と大部分の知識階級人が言っているのだ。

智恵子抄を書いた純情詩人の高村光太郎も、真珠湾攻撃の一報を聞き、智恵子との官能的愛を歌い上げるのをやめ、「天皇あやふし」「私の耳は祖先の声でみたされる」と言い、「個としての存在」から「共同体精神の卓越した表現人」として、戦争を鼓舞する詩を書いた。

ところが、『拝謁記』によれば、昭和天皇は、戦後、つぎのように語ったという。

「「五五三の海軍比率が海軍を刺戟して 平和的の海軍が兎に角くあゝいふ風ニ 仕舞ひニ 戦争ニ賛成し 又比率関係上 堂々と戦へずパールハーバーになつた」

この発言は、真珠湾攻撃が奇襲攻撃であると認めている。しかも、1921年のワシントン海軍軍縮条約が、1941年の日本の真珠湾奇襲攻撃の遠因になったとまで言っている。

昭和天皇は、日米開戦の理由もはっきり認識していて、つぎのように言う。

「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか 或いは 適当ニ 妥協して あとの事ハ 絶対駄目と出てくれゝば よかつたと思ふ」

日米の衝突は、日本が、満州事変を機に、中国東北部を植民地化したことにあると、昭和天皇は認識している。

4年前の8月の「戦後80年談話」では、安倍晋三は、その点をあいまいにしている。

「その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。」

あたかも、日本こそ被害者のような表現となっている。そして、3年前の12月27日に真珠湾の慰霊碑に訪れ、つぎのようにスピーチした。

「耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江」

と、その感傷の言葉が最後まで続き、その途中に、「The brave respect the brave. 勇者は、勇者を敬う」を引用し、お互いによく戦ったではないか、と戦士をほめたたえる挿話をいれた。

そう、安倍晋三は軽いのである。日本の過去のあやまちを顧みないのである。

評論家の保阪正康は、2日後の朝日新聞のインタビュー記事で次のように言う。

「真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、アジア太平洋地域で1千万単位の人々の命が失われた。私たちの国はどんな教訓を学んだのか。首相のスピーチの眼目はそこにあったが、真珠湾という「点」からしか語られず、深みはなかった。」
「首相のスピーチは戦争の一部だけを切り取り、ポエムのように語っている感じだった。」

真珠湾攻撃は奇襲ではない、アメリカの陰謀だと言う人がいるが、日本のサムライの伝統的戦術は奇襲である。まともに戦えば、戦争は消耗戦になる。源義経は、背後から突然平家を襲い手柄を立てた。また、いまでも、鎌倉の地中から、不意討ちの夜襲で死んだ人の人骨が大量にでてくる。鎌倉政権内部で互いに奇襲で殺し合っていたのだ。

たぶん、戦争にルールがないのは日本だけではないだろう。真珠湾攻撃に関連して、秦郁彦は、軍人は戦争をしたがるもので、武士道では、夜襲をしても、枕を蹴っ飛ばして殺せば、起こしたのだから、それでいいのだとコメントしていた。戦争に正義はない。戦争はしてはいけないのだ。

日本政府は、真珠湾攻撃の30分前に米政府に「宣戦布告」の文書を渡すように、米駐在大使に指示したという。そしては、実際には、その文書が米政府に渡されたのは真珠湾攻撃の1時間後であった。

米国政府に渡すように米国の日本大使館に打電した文書は14部からなる大量のものであり、それまでの交渉経過を長々とかいてあり、最後の3行に日米交渉の打ち切りの旨が書かれていた。宣戦布告とは書かれていない。

したがって、これを傍受し、暗号解読ができても、すぐには宣戦布告と米国政府は理解できないだろう。日本的あいまいな意思伝達手段を用いたのである。

最後になるが、きょうのNHKテレビは、真珠湾攻撃の犠牲者の追悼式典の報道をつぎで終えている。

「真珠湾攻撃から78年がたち、当時の体験を語ることができる人が少なくなる中で、アメリカでは当時の記憶を若い世代にどのように伝えていくかが課題となっています。」

だいじなのは、「どのように」ではなく、「なにを」伝えるかで、「当時の記憶を」では、その答えになっていない。「真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、アジア太平洋地域で1千万単位の人々の命が失われたことからの教訓」こそ重要なのである。